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残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ

否定の時代にいかに歴史の声を聴くか:「反日種族主義」と韓国/日本 趙慶喜

1. 「反日種族主義」現象を批判する

 2019年夏に刊行された『反日種族主義』は、韓国と日本で多くの反応を呼び起こした。日韓関係の亀裂が表面化したのとほぼ同時期に刊行されたこの本は、韓国で数人の政治家たちが拒否反応を示したことで一気に注目を浴び、たちまちベストセラーとなった。「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」という文章から始まるこの本は、あえて要約するならば、日本帝国主義による性奴隷制や強制動員、民族差別はすべて虚構であり、これらの嘘が信じられてきたのは韓国のシャーマニズム的な反日種族主義のせいだったという内容である。
 代表著者の李栄薫(イ・ヨンフン)は元ソウル大学教授の経済史研究者であり、これまでも朝鮮総督府の土地調査事業の研究を通じて植民地近代化論(植民地支配によるインフラの導入や開発が韓国の経済成長の基盤となったという議論)を展開したり、テレビ討論で日本軍「慰安婦」を「公娼売春婦」と述べるなど物議を醸してきた人物である。現在は右派シンクタンクともいえる落星台研究所の理事長、私塾「李承晩学堂」の校長などを歴任している。韓国では刊行直後から批判記事が大量に書かれただけでなく、すでに批判本も数冊出ている。騒動は一旦収まったように見えるが、現象としての「反日種族主義」は現在も進行中である。
 韓国でいわゆるニューライトによる本がベストセラーになること自体は特に目新しいことではない。2006年に盧武鉉政権の過去清算事業に反発して刊行された『解放前後史の再認識』という本が話題になったように、進歩政権に対する反動として右派的な言説が一時的に沸き起こることはこれまでもあった。『反日種族主義』の出版もまた文在寅政権への反発、そして慰安婦問題や徴用工問題をめぐる進歩派の歴史認識に対するバックラッシュである。
 ただ昔と大きく異なることがある。一つは、この本の内容が検証を経ることなく、これまでとは異なる新しい言説としてSNSを通じて流通する環境にあることである。たとえば李承晩学堂によるyoutubeチャンネル「李承晩TV」は、登録者数10万人を目前にしている。民族主義ならぬ種族主義という語もまた大衆的に広がりを見せつつある。ここでの種族主義とは学問的概念ではなく、韓国という民族集団を排他的で未開な存在として貶めるための烙印である。以前からこの語を考えていたという李栄薫は、出版後「親日派」という攻撃に対し、「それならお前は反日種族主義者」だという反撃がネット上で可能になったことを「望ましい現象」として挙げている1
 そして二つ目に、この本が韓国以上に日本で大きなブームとなっていることである。日本語版を出版した文藝春秋は、2019年末、『週刊文春』などの誌面で『反日種族主義』特集を組んだ。評者のうち、自民党の石破茂はこの本を「単なる反韓・嫌韓本ではなく、著者らが現在の韓国を憂えて記した“憂国の書”」と評し、京都大学の小倉紀蔵は「この本の著者たちは、『韓国人は歴史に対して過度な劣等感を抱くな』と励ましている…李栄薫氏らが自分たちの歴史について、これほど赤裸々に自己反省を展開する痛みの深さを推し量るべき」と述べている2。賛辞を送るのは彼らだけではない。『週刊朝日』は『反日種族主義』を「韓国社会の成熟」と表現し、NHK前ソウル支局長の池端修平は「この現象は、韓国における「反日」の、「終わりの始まり」かもしれない」と希望とともに評価する3。2020年2月末現在、amazonには711個のレビューが載っているが、全体の評価は異様なほど高い。
 ネット右翼からいわゆる知韓派にいたるまで『反日種族主義』に魅了される現象を見ると、この本は確実に日本の広範囲な読者層を設定してつくられている。出だしから強調される韓国の「嘘つき文化」は嫌韓ネット右翼の決まり文句であり、韓国人自身の「自己反省」は日本の中道の知韓派たちが好む姿である。管見の限り日本のリベラルによる本格的な書評はまだ見当たらない。このまま沈黙を続けるのか、あるいは5年前の『帝国の慰安婦』の時のように分裂を経験することになるのか。残念ながら目を背けてばかりはいられない状況になってきている。「誠実な韓国人は、迫害を恐れず、それに立ち向かっている」4といわれるように、日本で李栄薫はすでに殉教者的な位置を占めているようである。『反日種族主義』はもっとも良いタイミングで効果的に散布され、嫌韓言説に一種の正当性を付与したのである。
 こうしたなか韓国ではつい最近『ポスト真実の時代、歴史否定を問う:「反日種族主義」現象批判』という本が刊行された(写真参照)。著者の康誠賢(カン・ソンヒョン)は、『反日種族主義』刊行当初からこの本の問題点とこの現象の拡大可能性について予見し、SNSを通じて素早く対応してきた。彼は歴史社会学者として、特に国家暴力の過去事を研究する社会学者として『反日種族主義』が提示する史料と解釈のフレームを集中的に検討し前面から反論を提起した。日本軍慰安婦を公娼制下の職業的売春婦であったと規定し、被害者の文玉珠(ムン・オクチュ)の証言を「反日種族主義」批判のために活用する李栄薫の選別的な史料の扱いを暴き、語りに寄り添った文脈的な読みの方法を自ら実践してみせた。この間慰安婦問題に関する米軍資料を発掘し、被害者の声に向き合ってきた著者ならではこそ可能な作業であった。
 実証主義的な反論が重要なのはいうまでもないが、現象としての歴史修正主義を問う文化論的・認識論的な分析は始まったばかりである。ポスト真実時代のいわば否定の実証主義、あるいは実証に対する冷笑をどのように問えばいいだろうか。本稿は『反日種族主義』の内容の紹介ではない。むしろ現象としての「反日種族主義」、つまり日韓のあいだで連動する歴史修正主義の展開について、康誠賢の作業を補うかたちで検討したい5


康誠賢『ポスト真実の時代、歴史否定を問う:「反日種族主義」現象批判』(プルンヨクサ)

 

2. 歴史修正主義の同時代性

 まず、韓国の現実を日本の文脈とつなげてみると、よりはっきりとした構図が浮かび上がる。李栄薫をはじめとする韓国のニューライトは、歴史否定を繰り返す日本の右派と手を結んで活動領域を広げており、今後もその可能性が高い。たとえば2019年7月にも、『反日種族主義』の筆者の一人である李宇衍(イ・ウヨン)は、ジュネーブの国連本部にて、「テキサス親父」日本事務局長・藤木俊一の金銭的支援のもと「軍艦島の真実」と題して徴用工の強制動員や賃金差別を否定する報告を行った。
 日韓の同時代的な流れを追跡してみると、2005年の韓国ニューライトの結集と2019年「反日種族主義」現象は、日本で1997年の「新しい歴史教科書をつくる会」結集と2013年の慰安婦歴史戦の展開などと一定の呼応関係にあるといえる。すなわち韓国ニューライトの結集が盧武鉉政権の過去清算の制度化に対する反発を大きな動力としていたならば、日本のつくる会の結集は、1994-95年慰安婦問題と植民地支配責任に言及した河野・村山談話、より広くは戦後50周年を迎えたリベラル勢力の戦後の見直しを背景としていた。付け加えるならば、在日朝鮮人の参政権運動やフェミニズム運動が一定の成果をもたらしていたのもこの時点である。歴史修正主義の噴出は、慰安婦問題、在日朝鮮人、フェミニズム、そしてそれらを支持するリベラル勢力全般についてのバックラッシュという性格を持っていた。
 その後つくる会の歴史修正主義は2000年代に入り広範囲なネット右翼に拡大し、その過程で在特会のような憎悪を肥大化させたモンスターも登場した。今日、安倍政権の背後で活躍する全国的な宗教右派ネットワークである日本会議もまた90年代の歴史修正主義の傍で活動を始め、日本最大の右派勢力に成長した。韓国でもよく知られているつくる会・在特会・日本会議はそれぞれ異なる活動を展開しながらも互いに連動しつつ歴史修正主義の大きな流れをつくってきた。二つ目の転換点としての2013年以後、右派たちが国際的な舞台で歴史戦を始めた契機はやはり慰安婦問題であった。2013年から2015年まで見ても、米グレンデールの慰安婦の碑の設置反対、「慰安婦真実国民運動」結成、日本政府内に「河野談話」検討チームの設置、吉田清治証言をめぐる圧迫と証言取り消し、右派たちの国連進出、そして12・28の日韓合意まで、まさに慰安婦問題は日本の右派たちの「主戦場」となった。1997年と2013年は、その数年前に非自民政権を経験し、日本社会が大地震による混乱と苦痛を経た後でもあり、そのなかで日本のリベラル勢力が対抗的な力を次第に失っていく過程でもあった。
 また近年では、日本の歴史修正主義がサブカルチャーの形式とともに展開されてきたことが明かされている6。小林よしのりの作品をはじめ「嫌韓流」や「在日特権」といった歴史否定のコンテンツも、漫画やブックレットを通じて拡散していった。『反日種族主義』で李栄薫が「素朴な普通の人々の情緒」を強調するように、ファクトの検証よりも大衆の感性を刺激し、反エリート主義やアマチュアリズムを実践するかたちで論が展開される。日本の歴史修正主義の大衆化の過程は、フェイクニュースや「ポスト真実」といった今日のグローバルな現実の先駆的な反面教師として参考にするべきことが多くある。
 もちろん安倍晋三の長期執権によって社会全体の反動化がすすんだ日本と、近しい過去に朴槿恵政権を倒した経験のある韓国は、歴史的経験も社会的動力の点でも多くの違いがある。しかし2013年の韓国歴史教科書の国定化運動を見て既視感を覚えた人々が多かったように、韓国のニューライトは日本の歴史修正主義に自らの活路を見出し反撃を始めた。反共主義を掲げて「従北」への攻撃を繰り返してきた彼らが、今度は日本の右派とともに「反日」をターゲットにし始めたのである。
 今日、文政権とその支持者たち、そして歴史を語る人々を諸悪の根源の「反日種族主義者」と見なす彼らは、15年前のニューライト・植民地近代化論者たちのレベルからも大きく逸脱している。当時オールドライトとニューライトの違いが重要であったとすれば、現在重要なことは二つの秩序が混じり合いながら、破片化した個々人のネオリベラルな感覚を絶えず再編していることである。歴史の被害者や社会的なマイノリティの声を、過度に政治化されたものとして歪曲し、現在の秩序を脅かすものとして否定する感覚は、今後もある瞬間に繁殖する可能性がある。康誠賢はレッテル貼りのスパイラルに陥りがちな歴史認識をめぐる情況に対して、あくまで歴史的事実に根ざしていかに批判的に介入できるかを模索している。

3. 歴史否定とミソジニー

 映画「否定と肯定」7(Denial、2016)は、ホロコースト研究者と否定論者との法廷闘争の実話をもとにした作品である。ヒットラーを研究し信奉するイギリスの大学教授デビット・アーヴィングは、「自分はホロコーストについての関心を呼び起こした人間であるのに、『否定論者』という烙印によって名誉を傷つけられた」とユダヤ系のホロコースト研究者を堂々と名誉毀損で訴えた。それだけでなく、映画はアーヴィングの被害者への嘲弄、ミソジニー、人種主義などの性向を描いているが、そうした演出は実際の法廷でのアーヴィングの発言を再現した結果であるという。訴訟を経験した実際の主人公である歴史家デボラ・リップスタットは、アーヴィングがミソジニストであり、一般的に否定論者たちが女性をターゲットにする傾向があると指摘した8
 歴史否定論と人種主義やミソジニーが互いにどのように連動するのかは、今後多くの実証的研究が必要となるが、日韓の歴史修正主義の過程からもミソジニーやジェンダー・バックラッシュとの重要な相関関係を読み取ることができる。教科書運動が一段落した2001年以後、つくる会や日本会議が熱心に展開した運動の一つはジェンダーフリー反対運動であった。1999年男女共同参画社会基本法をはじめとする女性関連の法制化がすすみ、各自治体で男女共同参画条例やジェンダー講座、学校性教育に対するバックラッシュが全国各地で起きた。それ以外にも男女混合名簿の廃止、選択的夫婦別姓制反対、女性天皇を許す皇室典範改正反対など、既存のジェンダー秩序の変化に反対する運動が展開された9
 重要なことはこうしたバックラッシュ運動が、歴史修正主義と同時に推進されたこと、そしてこれらを媒介したのが日本軍慰安婦問題への反発であったという点である。たとえば、当時のつくる会の幹部たちは慰安婦の教科書記述を否定する一方で、保守メディアを主要舞台にジェンダーバックラッシュの主役としても活躍した10。彼らは「母性の復権」を叫び、女性たちの自律的領域を否定する一方で、慰安婦を売春婦と呼び、被害者と性労働者たちを同時に侮辱する言説を再生産してきた。彼らには日本軍慰安婦問題とジェンダーフリー教育は、愛国心と伝統的秩序を破壊するという点で積極的につながった。
 近年特徴的なことは、慰安婦否定論とバックラッシュ運動を女性政治家や活動家たちが担当したことであり、それが国際的な広がりを持ったことであった。櫻井よしこ、杉田水脈、山本優美子などが代表格であるが、彼女らは歴史を否定する際に女性を積極的に押し出す。性奴隷(sex slave)という言葉が世界的に広がったことを深刻にとらえた彼女らは、在米・在欧の日本人とともに国連でのロビー活動と少女像撤去運動など、国際的な歴史戦の先頭に立ってきた。杉田は「男たちがつくった慰安婦問題を女性たちが解決する」「被害者ぶっている女性、罪を告白しているかのような偽善の男性、こうした人たちを打ち負かすのはやはり女性」11であるという歪曲された「女性」主義を活用する。彼女は在特会のような露骨な嫌韓発言や暴力デモこそしないが、日本の加害歴史を否定し、男女平等を「反道徳の妄想」であるとし、在日朝鮮人、沖縄、LGBT、難民などすべての歴史、人権、福祉を否定するという点で「ネット右翼のアイコン」であり12、バックラッシュの標本となっている。
 女性を語りながらミソジニーあらわにするのは、『反日種族主義』も同様である。李栄薫は家父長による女性の性略取を問題にし、朴槿恵・崔順実を追い込んだ韓国人の女性差別を問うているが、彼はすべての葛藤の原因と責任を「反日種族主義者」に転嫁するうえで、女性をアリバイのように活用する。慰安婦問題を「種族主義の牙城」と見なす彼は、「性奴隷説を先駆的に主張した研究」として吉見義明と宋連玉(ソン・ヨノク)の研究を挙げ反論を提示する。吉見や宋の研究はまさに慰安婦制度と公娼制の構造的な暴力の連続性に焦点を当てたものであるが、慰安婦が公娼であると強調する李栄薫の結論はまったく逆である。つまり、慰安婦であれ公娼であれ基本的に契約であり、選択と移動、廃業の自由があったため性奴隷などではないと述べる。朝鮮の家父長による女性の性略取を繰り返し非難する彼は、なぜ慰安婦と業主の関係については「自由」や「契約関係」などの言葉であらわすのだろうか。帝国主義や植民地主義を不問に付す彼の近代至上主義には、こうした根本的なダブルスタンダードがある。
 李栄薫は既存の慰安婦研究が「歴史の複雑性を過度に単純化」していると批判するが、彼は特に韓国内の慰安婦関連研究に対し言及も参照もしていない。彼の見解が公娼制から解放後の韓国軍慰安婦問題までの多くの先行研究に対する意図的な無視に基づいていることは、康誠賢が本で詳細に明かしている。被害者の一番近くで国家の責任と女性の抑圧を糾明してきた活動家や研究者たちを、「無知と偏見にとらわれた扇動家」として歪曲する李栄薫の文章からは、資料調査と証言の聞き取り、被害者の支援活動を横断しながら慰安婦問題を世界的なイシューに発展させてきた人々に対するいかなるリスペクトも見られない。この対象がほぼ女性であるという事実は偶然ではない。
 李栄薫は慰安婦関連研究と資料を読み込むなかで、次第に性奴隷説から遠ざかっていったと述べているが、この点に疑いを持たざるを得ないのは、『反日種族主義』全体が性奴隷説否定のために資料が配置され論理が展開されているからである。康誠賢は李栄薫が連合国の捕虜審問資料をいかに選別的に活用したのかを、自らの構造的な歴史研究の方法論を通じて見せている。また李栄薫が慰安婦被害者の文玉珠の証言をいかに自らの主張のために簒奪したのか、証言の多層性や証言者と記録者の関係性を想像しながら文脈的に読み込んでいく。
 康は、文玉珠の証言について、「恐ろしい経験と輝かしい場面、家族を養うために頑張った場面などが交差し同居している」と述べている。証言は個別の経験に対する自己解釈の過程であり、またそれ聴く人との相互作用を通じて経験を構造化し、自らの歴史を回復する過程である。戦時性暴力の被害者にとって、それがどれだけ苦痛を伴う過程であるのかは想像を絶する。
 それなのに李栄薫は、証言に到達した被害者の決断を扇動家たちによるものと断定し、証言によって被害者たちの「辛くても甲斐ある人生」が失われたとまで述べる。苦しい過去を隠すことが「素朴な普通の人々の情緒」であると、証言の意味を奪い取る。もう一人の著者である朱益鐘(チュ・イクチョン)に至っては、「慰安婦は単に不幸でかわいそうな女性」であるとし、1990年代に入りようやく沈黙をやぶった加害/被害の当事者たちの決断を「詐欺劇」と「ニセモノの記憶」として貶める。彼は人間と歴史に対する皮相的な認識と態度を堂々と紙面に晒している。平易な文章によって人々のあいだのネガティブな情動を再編していく彼らの論は、まさに反知性主義と呼ぶにふさわしいものである。
 果たして彼らは脱冷戦期の国際関係の変化、そのなかで過去事をめぐる記憶や証言が世界的に学問的関心を集めた状況を理解できないのだろうか。彼らは、被害者たちが「二重三重の抑圧を突き破り、運動を通じて自ら主体となった」(康)、その画期的な意味をまったく理解していない。植民地近代化論者であれ、反共主義者であれ、個人の思想や信念を問うているのではない。彼らは冷戦時代に抑圧された被害者やマイノリティの声を聴く耳を持たないばかりか、世界史的な時代状況の変化を「客観的に」見ることすらできない。何より運動と証言によって被害者が不幸になったと見なす彼らの認識の根底には、被害者たちを最後まで無力化し非主体化させるミソジニーが横たわっている。
 慰安婦問題が日韓関係や東アジアをこえて国際的に広がりをもった背景には、いうまでもなくフェミニズムの高まりや被害者を救済する人権思想の発達がある。逆に#metoo運動が特に韓国で高まりを見せたのは、被害者たちの語り(speak out)と聴きの相互作用が社会的に蓄積された結果でもある。こうしたことを無視したまま、自らの主張のために慰安婦問題を動員する議論について多角的な検討が必要である。日本の右派たちを同じように、李栄薫をはじめとする『反日種族主義』の著者たちにも慰安婦問題が常に否定論の核心であったという点は、ミソジニーの観点からもより一層注目するべきである。

4. 自己否定としての韓国の歴史否定論

 最後に、韓国の歴史否定論の持つ独特の性格について考えてみたい。現在、日韓の右派が攻撃し嫌悪する共通の対象は一言で「反日」である。「反日」というものさしはすでに日本では歴史・人権問題を語る人々に無限に拡張され、日本の対抗言説をきわめて貧困な政治的想像力のなかに閉じ込めている。「反日」という烙印は、既存の秩序に批判的な態度を取る者に対する攻撃であり、虚構の国民的一体性のための過剰防衛の表れであり、いうなればお守りのような呪術的言語としての効果を持っている。
 ところが今や韓国人が「反日」を攻撃し、否定する。自己反省の名の下で「反日」を攻撃する時、彼らは果たしてどこに位置しているのだろうか。『反日種族主義』は「嘘で積み上げたシャーマニズム的世界観」を韓国の「精神文化」と見なし、慰安婦問題の責任を大日本帝国や日本軍ではなく、全面的に「妓生の性を略取した両班のはしくれの反日感情」に向けている。まるで韓国の慰安婦運動がこれまで家父長制を問うてこなかったような口ぶりで読者をミスリードさせる。これは果たして自己反省と言えるのだろうか。韓国の歴史修正主義は、自己反省ではなく、一言で自己否定と自己欺瞞に基づいている。たとえ歴史修正主義がグローバルな現象であるとしても、植民地支配と戦争の被害を受けた側の歴史否定は奇怪かつ欺瞞的である。彼らの非難の矛先は常に外部ではなく内部に向けられている。
 その点で韓国の右派たちの攻撃対象が「従北」から「反日」へと移行したのは興味深い点である。「パルゲンイ(アカ)」「親北」「従北」という烙印がそうであったように、韓国の右派たちは歴史的に内部の敵に対する攻撃と排除を自らの政治的動力としてきた。しかし時代の変化とともに「従北」フレームの効力が落ちると、より根源的に韓国のアイデンティティを否定する方向にすすんだ。「反日種族主義」はその帰結である。筆者の批判が反日種族主義であるならば、日本帝国主義を不問に付し、身内に向けて憎悪を噴出させる彼らの主体のねじれは、植民地的主体の完成形態といえるのではないか。そして日本の右派だけでなくリベラルメディアの一部も、この韓国からの自発的な嫌韓論に便乗してしまっている。
 「否定と嫌悪は『表現』の問題ではなく『発話』の問題」である、と康誠賢は述べる。歴史を否定する発話の位置を明るみにするなかで、その虚偽の声に対する批判を始めるしかない。相手を単にフェイクであると追い込むだけでは、「真実ゲーム」の消耗戦が展開されるだけである。また「親日派」や「売国奴」といった烙印を押すことで満足する水準からも脱する必要がある。歴史を否定する発話の位置を積極的に問い、その主張が何を否定し、否定によっていかなる効果を発揮するのかを検討することである。否定論の効果は歴史を否定することにとどまらない。被害者に対する嘲弄と冷笑、支援者への攻撃、ミソジニーや人種主義、そして人間の尊厳の軽視につながっている。歴史は多層的、多面的であるが、だからこそ私たちはなお底辺や周辺の経験への追求を怠ってはならないし、また被害者の語りに力を添える必要がある。否定の時代にいかに歴史を語り、そしてそれ以上にいかに「聴く」ことができるのか。今まさにそのことが問われている。


1. https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/bs22/special/2019/12/1216_interview.html
2.  『週刊文春』2019.12.19.
3. 池畑修平, 「日本語版は40万部 『反日種族主義』はなぜベストセラーになったか」『文藝春秋digital』2020.01.26. https://bungeishunju.com/n/ndaf89d7cf73f
4. https://twitter.com/Yamashita12S/status/1217823575815548928
5. 本稿は康誠賢の本に載せた筆者による補論を翻訳・修正したものである。
6. 倉橋耕平『歴史修正主義とサブ゙カルチャー: 90年代保守言説のメディア文化』青弓社, 2018.
7. この邦題自体に大きな問題があるが、それについてはひとまず橘玲の以下を評論参照。 https://diamond.jp/articles/-/184804
8.  『GLOBE+』 2017.12.7. https://globe.asahi.com/article/11532409
9. 船橋邦子「ジェンダー平等政策とバックラッシュの背景」『和光大学総合文化研究所年報 東西南北』, 2007. 山口智美「官民一体の「歴史戦」のゆくえ: 男女共同参画批判と慰安婦否定論」『海を渡る慰安婦問題――右派の「歴史戦」を問う』岩波書店, 2016. 조경희「일본의 #MeToo 운동과 포스트페미니즘」『여성문학연구』47, 2019.
10. 西尾幹二・八木秀次『新・国民の油断――「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼ゙す』PHP研究所, 2005.
11. 杉田水脈・山本優美子『女性だからこそ解決できる慰安婦問題』自由社, 2017.
12. 山口智美「ネット右翼とフェミニズム」, 樋口直人ほか著『ネット右翼とは何か』青弓社, 2019. 

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著者略歴

  1. 趙慶喜

    1973年生まれ、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、東京外国語大学にて博士号取得。2004年からソウル在住。現在、聖公会大学東アジア研究所助教授。歴史社会学、植民地研究、ディアスポラ研究。
    主な共編著に『主権の野蛮:密航・収容所・在日朝鮮人』(ハンウル、2017)、『「私」を証明する:東アジアにおける国籍・旅券・登録』(ハンウル、2017)、共訳書に金東椿『朝鮮戦争の社会史:避難・占領・虐殺』(平凡社、2008)、白永瑞『共生への道と核心現場:実践課題としての東アジア』(法政大学出版局、2016)、主な論文に「『朝鮮人死刑囚』をめぐる専有の構図:小松川事件と日本/「朝鮮」(『〈戦後〉の誕生:戦後日本と朝鮮の境界』新泉社、2017)、「裏切られた多文化主義:韓国における難民嫌悪をめぐる小考」(『現代思想』2018.8)など。

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