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残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ

沖縄戦時の朝鮮人の歴史を掘り起こす 呉世宗

1.写された墓標

 ここに一葉の写真がある。
 背景に海があり、さらにその向こうには、砲弾による煙が立ちのぼる小高い山が見える。沖縄の本部半島西に浮かぶ瀬底島である。写真の右には、ヘルメットをかぶった米兵らしき人物が写り込んでいる。しかし焦点が当てられているのは、その海や山を背景にした14本の白い柱である。それらは、当時としてはしっかりとした木材を使用した、1メートルから2メートル近くの高さを持つ墓標である。その写真のキャプションには、「空襲で殺されたジャップの部隊(JAP TROOPS)」とある。

Mark Graves, “Photographic essay Okinawa,” Life Magazine, 18(22), 5.28.1945より

 この墓標の写真は、1945年4月の米軍の沖縄本島上陸後に来沖したであろう従軍カメラマン、ユージン・スミスが本部町健堅で撮影したものである。米軍やその関係者が写した膨大な写真の検討が、これからなされるべき沖縄戦研究の一つであることを示してもいよう。
 しかし今回注目したいのは、その一つ一つの墓標に記された名前である。一人を除いてすべて「故陸軍々属~之墓」とあるが、その中に「故陸軍々属明村長模之墓」(右から4つ目)、「故陸軍々属金山萬斗之墓」(右から2つ目)という墓標があるのが分かる。「明村長模」「金山萬斗」は、竹内康人作成の『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』にも記載されている人物である。「明村」について竹内は、「明長模(ミョン・チャンモ)」という名であったことまで明らかにしている。「金山」については、琉球新報記者であった李ジニが、韓国人の協力を得て遺族を探しだし、朝鮮人軍属「金萬斗(キム・マントゥ)」であることを確認した。つまりおそらく偶然カメラは、沖縄に連行されていた朝鮮人軍属の名前を収めていたのである。墓標に名を記された者たちは、1945年1月、本部町渡久地港に停泊していた折、米軍の空襲によって炎上座礁した日本軍輸送船彦山丸の乗組員であり、明長模、金萬斗もその一員であった。
 昨年(2019年)、NPO法人「恨之碑の会」の尽力のもと平和祈念公園内の平和の礎に「金萬斗」の名前が刻まれた。沖縄県は、平和の礎に名前を刻む条件として戦死したことを示す確たる証拠資料を求めており、それが彼の名を刻む際に若干ネックとなった。連行されてきた朝鮮人は軍人軍属であれば基本的に名簿はあるものの、生死の調査が行われていないため死亡認定がなされていない。そのため戦死の厳密な証明を求める沖縄県の方針が、逆説的に朝鮮人の名を刻むことを阻んでいたのである。しかし金萬斗(キム・マントゥ)については、名簿に記された日本名、紹介した写真、そして遺族の話などから状況的に見て戦死したと判断され、名前が刻まれることとなった。確たる証拠が残されにくい朝鮮人の刻銘に関して画期的な一歩であった。
 沖縄戦の朝鮮人については1960年代中盤以降、沖縄の人々の戦争体験が聞き取られるなか、はからずも語られることとなった。現在においても、ゆっくりではあるが着実に民間の調査が進められ研究が蓄積されている。しかし、朝鮮人が結局のところ何名連れてこられたのか、沖縄各地での具体的な状況はどうだったのかなどを明らかにする作業は残されている。今回調査・研究、そして遺骨発掘に関わる二人の人物に焦点を当て、沖縄戦時の朝鮮人について現在沖縄で進行していることをみていきたい。


2.史資料と証言を組み合わせる

 沖縄戦時に連行されてきた朝鮮人は、今現在も1万人ほどと言われている。この数字は平和祈念公園内の韓国人慰霊塔(1975年建立)の碑文にある、「この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された一万余名……」が根拠の一つとなっている。しかしながらこの「一万余名」それ自体、実のところ史料などの精査や調査によって明確に根拠付けられたものではない。
 1972年5月に沖縄の施政権が日本に返還されてすぐ、朝鮮総連と日本人の合同調査団(第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団)が沖縄戦で被害にあった朝鮮人の調査を行っている。この調査団が作成した報告書は当時の駐日韓国大使も高く評価したものであったが、その中に「数万」の朝鮮人が沖縄に強制連行されてきたと研究者が「推定」し、この度の調査で6600名ほど連行されたことが「分かった」と記されていた。先ほどの韓国人慰霊塔の「一万余名」は、この漠然とした数字をもとにして刻まれたものだったである。
 近年、朝鮮人被害者数の確定というかなり困難な問題に取り組んでいる在野の研究者がいる。沖本富貴子である。沖本は2013年ごろ慶尚北道・英陽郡にある「恨之碑」を見に行っているが、彼女が驚いたのは、韓国の恨之碑には、沖縄・読谷村にあるそれとは異なって、沖縄戦の際に連行された朝鮮人の名前がずらっと刻銘されていたことであった。そのことがきっかけとなり、帰沖後沖本は、NPO法人「恨之碑の会」内に立ち上げられた朝鮮人「軍夫」研究会に加わり、研究をスタートさせた。
 沖縄は凄惨な地上戦の場所となったことから、60年代より住民の側から戦争を捉え返そうという運動が起こり、戦争体験者の証言が多く集められている。証言は独自の生々しい印象を聞く者、読む者に与える。しかもこのとき多く集められた住民の証言は、軍主体の戦争の語りから住民主体のそれへと転換させたこともあって、高い価値が置かれることとなった。しかし他方で証言というものは、例えば語り手が繰り返し同じ証言をすることで本人も気づかないうちに内容が微妙に変化することがあるように、常に不安定さを抱えている。だからこそ証言は他の史料と照らしながら検証をする必要がある。
 沖本の研究の進め方は、まさに軍の残した部隊状況などの史料と住民の証言を地道に突き合わせ、時期、場所、人数などの点での符合を明らかにするものである。そうすることで同時に彼女は史料と証言を検証し、沖縄戦時の朝鮮人の歴史の全体像および地域ごとの個別的状況も浮き上がらせているである。つまり突合せ作業により証言と史料を検証し、証言だけだと見えない全体像を目に見えるようにし、そして史料だけでは想像しにくい、あるいは史料が捨象してしまう当時の個別的な状況を証言によって肉付けを行っていることになる。
 沖本はそのような方法をもって朝鮮人の動員人数を多角的に検証し、加えて韓国の資料も使い複数の観点から検討することで、現在のところ3800名ほどが連行されてきたのを確認している。
 史料と証言を突き合わせるというやり方は、方法として特段目新しいものではないかもしれない。しかしこのことは多くの証言が残され、現在も戦争体験の証言が記録され続けているからこそ可能となった沖縄独自の方法だとも言える。付け加えるならばこの方法は、全体像の中に含まれる個別的な状況を証言をもとにして具体的に描き出し、そうすることで描き出された個別的状況の中であらためて各証言を解釈し直す可能性も開いている。このことは沖縄で続けられているもう一つの注目すべき試み、「遺骨発掘」においても当てはまる。というのもそれは骨を掘り起こすだけでなく、個別的状況の再構成をするという「証言」の役割を担いつつあるからである。


3.遺骨を発掘する

 これまで40年近く戦争被害者の遺骨発掘を行っているのが、「沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」」代表・具志堅孝松である。
 沖縄戦で亡くなった者の遺骨は、大田昌秀元沖縄県知事もその著書で学友の遺骨探しを行ったと記している通り、戦争終結直前・直後から友人や遺族によって探し求められている。見つけられた人もいれば、あまりの遺骨の多さにどれが探している者か見分けられなくなる人、少し時間が立って探しに行ったところ、草木が生い茂り探せなくなってしまった人など悲喜こもごもであった。遺骨が見つけられなかった者の中には、その場にあった石を持ち帰り自分を納得させた人もいたという。
 他方、戦争が終わり暮らしていた地域に戻った人々は、生活を立て直すため農作業などに取り掛かるが、その際遺体や遺骨を片付けなければならない状況に直面する。耕そうにも遺体があり、耕したところで無数の骨が出てくるからである。生活の立て直しは、遺体や遺骨を処分することからしか始められなかったのである。
 生活と遺体・遺骨がともにあったわけだが、時が進むにつれ徐々に生活風景が二分化してくることになる。建て直されていく生活風景と、埋もれ見えなくなっていく遺骨である。もちろんすべての遺骨が地中に埋まっていたわけではなく、頭蓋骨などは半分盛り上がることで存在感を示してはいた。しかし目の前に遺骨があったにもかかわらず、生活の再建が骨を覆い隠し、そのうち人々はあまり意識しなくなっていった。生活復興と経済開発のために重機でごっそりと遺骨を除去したことも、この二分化に追い打ちをかけた。個人の邸宅やビルといった建物建築や道路などのインフラ整備のため、重機で土を骨ごとさらっていったのである。
 具志堅孝松が幼少期から見ていたのは、そのように生活再建が骨を覆っていく風景であった。そのうち身内が来るから遺骨は動かしてはいけないと言われてもいた。彼が遺骨発掘に関わり始めたのは、「本土」からの遺骨収集団に応援を頼まれた28歳、1982年からである。その後具志堅は現在に至るまで、自らの役割として、かけらのような骨を含めて丁寧に遺骨の発掘と収容を続けている。


頭蓋骨の一部を手にする具志堅隆松氏。写真はハンギョレ新聞日本語版2019年2月16日付「[ルポ]戦後74年、眠りにつけない沖縄の霊魂」より。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/32810.html

 地道な収容を続けるなか、具志堅は遺骨の見つかり方に違いがあることに気づく。「友軍」であったはずの日本兵の遺骨のほうが見つかりやすいのである。骨となった者の衣服は時間の経過とともに全て土中で失われてしまうが、しかし骨のすぐ近くに鉄兜や手榴弾、軍服のボタン、弾丸などがあることによって、それが兵士であったと推定することができる。そのように遺骨の発掘は周辺情報の復元にも関わり合っている。その発掘と復元から見えてくるのが、多くの兵士らが安全な壕の中に潜んでいたこと、その最中に米軍の攻撃により生き埋めとなったため骨がきれいに残るということだったのである。要するに「友軍」の骨が見つかりやすいのは、彼らが壕の中など比較的安全なところにいたからなのであり、骨となってなお軍民の格差は残り続けている。
 沖縄戦時、壕から追い出されたり敵陣への突撃を命じられたりした朝鮮人たちの骨は、さらに困難な状況に置かれている。発掘されるかけらのような骨の中には朝鮮人のものがあったはずであるが、それはこれまで間接的に想像されるしかないものであったからである。発掘された遺骨の内には、その周辺の情報もふまえて判断するに住民でも兵隊でもないと推測される骨があることがある。軍服についていたと思われるボタンはあるが軍靴はなく、また鉄兜や武器も所持していない、といった軍人と住民の間にあるような遺骨が見つかる場合があるのである。軍人でもなく、住民でもないといった消去の先に、かろうじて想像されるのが朝鮮人の存在だったのである。「李~」と彫られた印鑑が遺骨のそばにあったこともあったが(おそらくは中国人か台湾人が持っていたもの)、あくまでもレアケースでしかない。ちなみに朝鮮人軍属が「星マーク」のある軍服を着ていたという証言もあり、彼らがどのような服装であったのかは今後調査をする必要がある。
 しかしこの困難を乗り越えるべく、朝鮮人、沖縄の住民、兵士の骨を問わず、近年具志堅が取り組み始めているのが、遺族から提供されたDNAと遺骨のそれのDNA型鑑定による身元特定である。実際日本政府は、シベリアなどに抑留され亡くなった日本人の遺骨を証言などをもとにして探し、大掛かりなDNA型鑑定を行っている。しかしながら南方地方である沖縄では、骨の劣化が早く、十分にDNAの採取ができないという理由で行われていなかった。
 しかし2009年に発掘された遺骨が偶然遺族と繋がり、具志堅がDNA型鑑定を進めたところ見事に合致したのである。南洋においてもDNA採取が可能であることを自ら証明する出来事となった。その結果、国に対して鑑定依頼ができるようになり、沖縄県は遺骨の火葬を中止するに至った。なお現在沖縄県のウェブサイトには、「(お知らせ)戦没者遺骨のDNA鑑定の実施について」というページが作られ、鑑定申請ができるようになっている(https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/hogoengo/engo/2017080201.html)。
 さらにDNA型鑑定の他に「安定同位体比検査」も近年開発されており、具志堅はこれにも着目している。歯や骨を構成する元素の中に存在する安定同位体は、誕生時から18歳になるまでの生育環境を反映して、その数が増減する。つまり骨や歯に含まれる各安定同位体の比率を検査することによって、遺骨の出身地までが特定できるようになるのである。この検査によって日本であれば何県出身であるかまで分かり、当然朝鮮半島出身かどうかの判別も可能となる。遺族のもとにまでではないにせよ、遺骨を朝鮮半島まで返すことができるのである。
 「DNA」にまつわる言説は誤解を招く恐れがあるものの、DNA型鑑定および安定同位体比検査は、この骨が誰であったのかを浮上させ、これまで不可能であった遺骨の返還を、沖縄だけでなく、アジア地域にいる遺族に対しても道を拓くこととなったのである。


4.国境を超えて合流する調査研究と遺骨発掘

 ここまで述べてきた、沖本による軍関係史料と証言の突き合わせによる事実の確定の試みと、具志堅が実践してきた遺骨の収容と科学的鑑定が2019年に合流することとなった。本稿のはじめで紹介した、沖縄本島・本部町健堅に埋葬されているはずの彦山丸事件の被害者全員の遺骨を掘り出し、DNA型鑑定を施し、遺族へと返そうという運動団体が立ち上げられたからである。その立ち上げられた「沖縄県本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」の共同代表に、岡田弘隆のほか沖本と具志堅が就任している。
 すでに述べたように軍徴用船彦山丸が炎上座礁した渡久地港は、朝鮮人軍属が配属された特設水上勤務第104中隊の第2小隊が荷の陸揚、運搬作業をしていた場所である。部隊は渡久地港のすぐ近くの健堅に駐屯していた。沖本は、第104中隊が1944年8月に那覇に上陸して以降の移動経路を陣中日誌などをもとに追いかけ、渡久地港、健堅の近くで暮らしていた住民の証言をもとに朝鮮人の置かれていた状況を具体的に明らかにしている。さらに沖本は、彦山丸の当日の状況も『「独立混成第44旅団南西空襲戦闘詳報」「1.22南西空襲戦闘詳報」』(1945年1月44旅団司令部作成)から詳らかにしている。それによれば彦山丸は、渡久地港から嘉手納に海上輸送する予定であったところ、朝7時に米軍機の空襲を受け炎上した。米軍機は船から飛び降りた者までも執拗な攻撃を行ったため被害者が多く出たと推測されるが、しかし何名亡くなったか確認できないまま14名が健堅に埋葬されたのである。埋葬に関しても証言が得られている。ある住民が当時軍に命じられて薪を集め、遺体を燃やし、畑に骨を埋めたと証言しているのである。


彦山丸の乗員14名の墓標があった場所の現在(写真:沖本富貴子氏提供)。

 「沖縄県本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」が行おうといていることは、集められた証言をもとに骨が埋められた場所を確定すること、そこを掘り起こし遺骨を探し出すこと、そして科学的検査を行い朝鮮人被害者を故郷に帰すことである。最初の掘り起こしは、2019年11月に行われた。最初の作業で遺骨は見つからなかったものの、ここにおいて沖本の研究と具志堅が培った発掘の経験が合流し、それだけでなく韓国と台湾の運動団体も加わったことで、作業は国境を超えて行われ始めている。
 骨を探し出すという行為は、沖縄戦の被害の大きさに比べると小さい試みではある。また健堅に埋葬された遺骨は、現場から遺体を移動させたうえで焼いたものであることから、発掘されたとしても亡くなった直後の状況を復元することはできない(埋葬時の状況については考古学者も加わって再現を試みる予定となっている)。とはいえこの事業は、沖縄のどの場所においてであれ遺骨が見つかる度に、あるいは遺骨があるだろうという見立てのもと発掘が行われる度になされるべきことを指示する、いわばモデルとなるケースとなるものである。加えて韓国、台湾の団体も加わっての事業展開は、沖縄戦を沖縄の外に開き、戦争の記憶を国境を超えて共有するものである。
 沖縄戦時の朝鮮人については調査がなくはないものの、まだまだ課題として残されていると言ってよい。ときに忘れられがちな課題でもある。だが健堅で始まった朝鮮人の遺骨発掘は、沖本富貴子や具志堅隆松によって積み重ねられた研究や発掘に基づいてその課題に取り組むものであり、過去の歴史を掘り返すことによって、沖縄にとっては異質な人々の記憶を国境を超えて共有する可能性を秘めている。歴史の継承が国際的な視野からの平和問題に繋げられようとしているところに、沖縄から発信される平和運動のあらたな意義もあるだろう。次回は沖縄戦の歴史が東アジアで共有され始めていることを文学者の活動に焦点をあてて見ていきたい。

※本稿を書くにあたり沖本富貴子さんと具志堅孝松さんにインタビューを行いました。インタビューを受けてくださったこと、丁寧にお応えくださったことに感謝いたします。また沖本さんからは写真、史料、情報を提供していただきました。記して感謝いたします。


参考文献・ウェブサイト
呉世宗『沖縄と朝鮮のはざまで――朝鮮人の〈可視化/不可視化〉をめぐる歴史と語り』明石書店、2019年
沖縄県本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会『資料集 「沖縄県本部町健堅の遺骨を故郷に帰す会」発足と記念講演会』(2019年7月27日(土)開催の発足式で配布された資料)
沖本富貴子「沖縄戦に動員された朝鮮人に関する一考察――特設水上勤務隊を中心に」『地域研究』no.20、2017年12月
沖本富貴子「沖縄戦の朝鮮人――数値の検証」『地域研究』no.21、2018年4月
具志堅孝松『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。――サトウキビの島は戦場だった』合同出版、2012年
第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団編『第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団、1972年
竹内康人『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 増補改訂版――連行先一覧・全国地図・死亡者名簿』神戸学生青年センター出版部、2015年
Mark Graves,“Photographic essay Okinawa,” Life Magazine, 18(22), 5.28.1945
沖縄県のウェブサイト内「(お知らせ)戦没者遺骨のDNA鑑定の実施について」
https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/hogoengo/engo/2017080201.html
「[ルポ]戦後74年、眠りにつけない沖縄の霊魂」ハンギョレ新聞日本語版2019年2月16日(2月17日修正)
http://japan.hani.co.kr/arti/international/32810.html

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著者略歴

  1. 呉世宗

    1974年生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程修了。博士(学術)。琉球大学人文社会学部准教授。主な著書に、『リズムと抒情の詩学――金時鐘と「短歌的抒情の否定」』(生活書院、2010年)、『沖縄と朝鮮のはざまで――朝鮮人の〈可視化/不可視化〉をめぐる歴史と語り』(明石書店、2019年)。主な論文に「金嬉老と富村順一の日本語を通じた抵抗」(『琉球アジア文化論集』4号、2018年)、「到来する歴史、積み重ねられていく小さな時間」(『越境広場』4号、2017年)など。

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