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オックスフォード哲学者奇行

エアの新婚旅行とウィーン学派

英国の小学校は9月から新学期が始まる。1学期はクリスマス前に終了するが、10月末に1週間の中休み(half-term holiday)がある。その間、オックスフォードにいても子どもの世話を終日することになるので、妻と相談してプラハとウィーンに行くことにした。ウィーンと言えばA.J.エア(A.J.Ayer)が新婚旅行も兼ねて論理実証主義を学びに留学したことが思い出される。若干強引な結びつけ方だが、今回はその話をしたい[1]

なお、日本語で表記するとき、Ayerは従来「エイヤー」と表記されていた。倫理的言明は真偽の問えるものではなく感情を表出しているにすぎないという彼の情動説の立場からすると、「エイヤー」というのは名前というよりは掛け声のようで似つかわしく思えるが、以下ではより英語での発音に近い「エア」と表記することにする。ちなみに、彼は友人たちからは「フレディ」と呼ばれていた(ファーストネームのAlfredから)。

さて、エアと言えば『言語・真理・論理』(1936年)が哲学史的には最も有名だ[2]。この著書は日本語だと特にタイトルが覚えにくいが、論理学や数学の同語反復的な命題を除き、経験的に検証できない命題はすべて無意味、つまり間違っているのではなく文字通りナンセンスであるとして、形而上学、倫理学、宗教、美学における主張をすべてナンセンスとなで切りにした本である。この本はウィーン学派(Vienna Circle)の論理実証主義の英語版と言えるもので、若きエアが1932年の冬から1933年の春にかけてウィーンに短期滞在したときにそのエッセンスを学んだものだ。

では、なぜエアはそもそもウィーンに行ったのか。結論を先に言えば、ライルの勧めがあったのと、新婚旅行先として良かったからだ。

オックスフォードにある、すでに使われていない公衆電話。上部にNonsenseという言葉があっておもしろい。ただ、この公衆電話は子ども向けのStory Museumの側にあるので、おそらく論理実証主義ではなく『不思議の国のアリス』の影響だろう。

エアは1910年生まれで、名門イートン校を卒業後、1929年にオックスフォード大のクライストチャーチに入学した。そこでチューターをしていた10歳年上のライルに出会い、彼の導きで哲学に傾倒することになる。エアはライルからウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を紹介され、3年生のときにオックスフォードの研究会でこの本についての報告を行った。『論理哲学論考』は1921年にドイツ語で出版され、翌年には英訳が出版されていたが、ウィトゲンシュタインの著作がオックスフォードで論じられたのはこれが最初だったとされる。

さらに、ライルはエアを自動車に乗せてウィトゲンシュタインに会いにケンブリッジに連れていった。ケンブリッジの話は今回の連載ではしない予定のため(仮に次のサバティカルがあれば、そのときにしたい)、ウィトゲンシュタインとの出会いの話は省略するが、いずれにせよエアは気難しいウィトゲンシュタインに気に入られたようだ。

エアは3年で学部を卒業したのち、クライストチャーチで講師(Lecturer)になるまで少し時間があったので、ライルに相談して、ケンブリッジに行ってウィトゲンシュタインの教えを請いたいと伝えた。するとライルは、それよりもよいアイディアがある、ウィーンに行ってウィーン学派のことを勉強してきなさいとエアに伝えた。それでエアはウィーンに行くことになった。

ライルはウィーン学派の親玉のモーリッツ・シュリックと知り合いだったので、一筆紹介状を書いてくれることになった。エアはウィトゲンシュタインに学ぶのも、『論理哲学論考』から多大な影響を受けたウィーン学派に学ぶのも同じようなものだと考えてウィーン行きを決めたわけだが、実はウィトゲンシュタインは主にフランク・ラムゼイの批判を受けてすでに『論理哲学論考』の思想を放棄しつつあった[3]。とすると、もしここでエアがライルの提案を突っぱねて、やっぱりケンブリッジに行きたいとがんばっていたら、『哲学探究』後期思想を形成しつつあったウィトゲンシュタインに教わることになっており、そうしたら『言語・真理・論理』はおそらく書かれることはなく、哲学史は大きく変わっていただろう。

ウィーンにあるウィトゲンシュタイン・ハウス。ウィトゲンシュタインが姉のマルガレーテの依頼に応じて、もう一人の建築家と一緒に設計・建築した。現在はブルガリア大使館が所有している。なお、ウィトゲンシュタインはウィーン出身で、父親は鉄鋼業で富を築いた名士であり、グスタフ・クリムトがマルガレーテの肖像画を描いたことも知られている[4]

しかし、エアがウィーン行きを承諾したもうひとつの理由があった。それはレネー・リーズとの新婚旅行だ。レネーはエアが大学に入る前に出会った女性で初恋の相手である。彼女はエアより1歳半年上で、エアの回想によれば小柄で短い茶色の髪と大きめの唇と青い目が目立つかわいい女性だった。レネーは元英海軍の大佐の一人娘で、この父親は軍務で日本に来たさいに日本が気に入って学習院(Peers School)で英語を教えることになり、その関係でレネーも日本で数年間暮らしていたことがある。エアはイートン校の最終学年だったときにフランス語を学びにパリに行き、ちょうど同様にフランス語を学んでいた彼女に出会った。そのときは恋愛関係にはならなかったが、約1年後にロンドンで再会したときから付き合うようになった。

エアが学部生のころにはレネーはロンドンに住んでいたため、お互いにオックスフォードとロンドンを行き来していた。現在のオックスフォード大学は学部レベルでは女性と男性の入学者はほぼ半々だが、基本的にまだほとんど男子学生しかいなかった当時のオックスフォードでは、女性と仲良くなりたければロンドンに行くしかなかった[5]。しかし、学期中は学生は門限の12時までにオックスフォードのコレッジに戻ってくる必要がある。そのため、オックスフォード行きの最終電車は「姦淫車(fornicator)」として知られていたという。電車の話で脱線したが、エアはちょうど学部での勉強が終わり、ウィーンは新婚旅行にちょうど良い、ということで1932年11月末にロンドンでレネーと結婚し、船と電車でウィーンへと旅立った。

さて、エア夫妻は1932年の冬にウィーンに着きモーリッツ・シュリックに会い、シュリックの授業だけでなく(これはノートを朗読するだけの退屈なものだったようだ)、ウィーン学派の週1の研究会にも出られることになった。そこにはシュリック、オットー・ノイラート、ハンス・ハーン、フリードリヒ・ヴァイスマン、クルト・ゲーデルといった著名な数学者・哲学者のほか、ハーバード大で学位を取得したばかりの若きウィラード・クワインもいた(ただしルドルフ・カルナップはすでにプラハ大学に移っていた)。詳述しないが、ここでエアは論理実証主義のエッセンスを吸収してくることになる。ただし、エアはフランス語とスペイン語は学んでいたがドイツ語はウィーンに来るまで学んだことはなく、語学にはいささか苦労したようだ。研究会での発表の内容はわかったが議論には参加できなかったと述懐している。

ウィーンでは語学の勉強も兼ねてドイツ語の映画を見たり、音楽好きの友人に連れられてオペラを見に行ったり、冬休みにはウィーンの森(Wienerwald)にスキーをしに行ったりと、新婚生活を満喫したようだ。ただ、これからウィーンで新婚旅行を考えている人にはよくない話だが、エアはその約10年後にレネーとは離婚することになる。彼は88年という長い生涯の間に3人の女性と4回結婚した。4回結婚したのに女性は4人ではないのは、2度目の結婚相手ディー・ウェルズとは、一度離婚して別の女性と結婚したあと、その女性の死後に再度結婚したからだ。

縁起の悪い話ついでに、ウィーン学派の顛末についても少し述べておきたい。戦間期のウィーンは社会主義的な施策をとる「赤きウィーン」として知られていたが、エアがウィーンで過ごした1930年代初頭には反ユダヤ主義、ナショナリズムの運動が生じつつあった。1936年にはシュリックがウィーン大学で教え子だった学生に射殺されるという衝撃的な事件も起きている。

ウィーン大学。シュリックはこの建物の中にある階段の踊り場で教え子だった男性に射殺された。

発砲した男性はシュリックの反形而上学的な思想によって道徳的信念を動揺させられたとか、自分が好意を抱いていた女子学生をシュリックが奪ったといった理由を裁判で述べていたが、背後には政治的な動機があったと考えられている[6]。すでにハンス・ハーンは亡くなり、ノイラートもオランダに亡命していた。次々と中心人物を失ったウィーン学派は解体に向かう。とはいえ、1938年のナチスドイツによるオーストリア併合の前後に米国や英国など各国に亡命していった研究者たちは、その後もとりわけ論理学や科学哲学の方面で影響力をもつことになった[7]

一方、ウィーンで論理実証主義の思想を学んだエアは、オックスフォードに戻ってレネーと住むところを見つけると、1933年の秋からクライストチャーチで教育と研究を始めた。友人のアイザイア・バーリンの勧めもあり、その3年後には『言語・真理・論理』の出版へと至る。この著書がオックスフォード哲学にもたらした多大な影響については、次回以降に機会があればまた話したい。

 

[1] 今回の記述は、主にエアの回想録を参照した。Ayer, A. J., Part of My Life, Willam Collins Sons & Co Ltd, 1977; Honderich, Ted, “An Interview with A. J. Ayer”, Royal Institute of Philosophy Supplement, vol.30, 1991, pp.209-226

[2] Ayer, A. J., Language, Truth and Logic, Penguin, 2001(翻訳:A.J.エイヤー著、吉田夏彦訳『言語・真理・論理』岩波書店、1955年)

[3] Misak, Cheryl, “Philosophy Must Be Useful”, Aeon, 2019, https://aeon.co/amp/essays/what-is-truth-on-ramsey-wittgenstein-and-the-vienna-circle

[4] ウィトゲンシュタインとウィーンの関係については、次の本が参考になる。Toulmin, Stephen and Allan Janik, Wittgenstein’s Vienna, Simon and Schuster, 1973(翻訳:S.トゥールミン/A.ジャニク著、藤村龍雄訳『ウィトゲンシュタインのウィーン』平凡社、2001年)

[5] 1879年にレディ・マーガレット・ホールとサマヴィル・コレッジが設立されて以降、女子学生のみが入れるコレッジがオックスフォード大学にもできたが、女子学生がオックスフォードで学位が取れるようになるのは1920年のことである(“October 1920: Women granted full membership of Oxford University”, The Guardian, 8 Oct 2019, https://www.theguardian.com/gnmeducationcentre/2019/oct/08/october-1920-women-granted-full-membership-of-oxford-university)。その後も女子学生の数を厳しく制限するクオータ制が1950年代後半まで続いた(Dyhouse, Carol, “Troubled Identities: Gender and Status in the History of the Mixed College in English Universities since 1945”, Women’s History Review, vol.12, no.2, 2003, pp.169-193)。なお、エアがいたクライストチャーチが女子学生を最初に受け入れたのは1980年のことである(A Brief History of Christ Church, https://www.chch.ox.ac.uk/sites/default/files/Visitor_Information-gb.pdf)。

[6] Kniefacz, Katharina, “Der Mord an Prof. Moritz Schlick: Attentat im Hauptgebäude der Universität Wien”, https://geschichte.univie.ac.at/de/artikel/der-mord-prof-moritz-schlick 次の文献もおもしろい。Sigmund, Karl, Exact Thinking in Demented Times: The Vienna Circle and the Epic Quest for the Foundations of Science, 2017

[7] The “Vienna Circle”(“Wiener Kreis”), https://geschichte.univie.ac.at/en/articles/vienna-circle-wiener-kreis

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著者略歴

  1. 児玉 聡

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。現在、オックスフォード大学にて在外研究中。
    主な著書に『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

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