キューバに行けなかった話(後編) 米自治領プエルトリコを歩いて
要塞都市サンファン上陸
マイアミを出発して3日、クルーズ船内のレストランで昼食を食べていると、サン・フェリペ・デル・モロ要塞が見えてきた。プエルトリコの首都サンファンだ。予定より1時間ほど早い到着だ。
――無事に上陸できそうで良かった。
私はホッと胸をなでおろした。キューバに行けなかった私たちだが、実はその代替地となったサンファンも2週間前には寄港が危うかったのだ。2017年のハリケーン「マリア」で壊滅的な被害を受けたプエルトリコでは、ここにきてその義援金をめぐるロセジョ知事の汚職事件が発覚、さらにはハリケーン被災者や女性、LGBTQらを侮辱する知事が送信したメッセージが漏洩し、大規模な抗議デモがしばらく続いていた。プエルトリコ出身で同性愛者であることを公表している歌手リッキー・マーティン氏が急遽サンファンに戻り抗議デモに参加した様子などは、日本でもマスコミ各社が報道していた。結局、ロセジョ氏は辞任、抗議活動も終了した。この間、クルーズ船も抗議活動がある日には寄港を取りやめるなどの対応をしていたが、無事に今日私たちは上陸を果たすことができた。
サンファンに降り立つと、アメリカ国内とは思えない歴史ある古い街並みが広がっている。サンファンの旧市街は全体が世界遺産だ。カラフルに塗られた建物が美しい。
まず私たちはサンファン大聖堂に向かった。1521年に建てられたカトリック教会だという。アメリカ本土で現存する最古の都市フロリダ州セントオーガスティンの建設が1565年だから、それよりも古い。
坂の途中にある大聖堂に入ると、白い天井の窓から光が降り注ぎ、中はとても明るい。重厚で薄暗いゴシック様式の教会などとは対照的に、南国らしさを感じさせる。
しばし、座ってその雰囲気を味わい、さらに坂を登りラス・アメリカス博物館に向かう。美しく立派な建物だ。1800年代にスペイン軍によって建てられたものらしい。
エントランスに向かう階段ではカラフルな骸骨が出迎えてくれた。
入場するとまず地元の美術大学のプロジェクトによる企画展示があった。娘もさまざまな作品を不思議そうに眺めている。それを過ぎると、常設展で、先住民タイノ族や、アフリカから連れてこられた奴隷とプランテーションなど、プエルトリコの歴史がわかる展示が続いた。1508年にスペイン人が入植した後、強制労働をさせられることとなったタイノ族は反乱を起こしたが、武力で鎮圧された。それによりタイノ族の人口は激減、労働者が足りなくなった結果、奴隷が必要になったということだ。
暗い歴史にすっかり疲れてしまった私たちは、1階のカフェで一休みすることにした。歴史ある建物にあっても、ミュージアムカフェらしく、錆びついたトタンの壁の質感やインテリアが居心地の良いスタイリッシュな空間だった。
城壁の向こう側
いよいよ、この城塞都市の象徴的史跡デル・モロ要塞に到着した。入り口には、アメリカのナショナル・パーク・サービスのマークが掲げられ、持参した全米共通年間パスで入場することができた。全米中のパークにある子ども向け教育プログラム「ジュニア・レンジャー・プログラム」も用意されており、娘も大喜びだ。パークを巡りながら指定のワークブックを完成させるとバッジがもらえるもので、娘は各地でそれを集めている。
歩き始めると、要塞のあちこちにサンファンの歴史のわかる展示がある。
カリブ海の「玄関」であるプエルトリコは他国からの防衛の要所だったという。この要塞の建築は1539年には始まり、スペイン統治時代には他国からの防衛、米国領になった後も2度の世界大戦で米軍基地として、その役割を果たしてきたそうだ。
屋上にあがると360度周囲を見渡せる。この場所から海の向こうを見張っていたのだとわかる。さらに東に目をやると、カラフルな町が見えた。
海岸線からの斜面に張り付くように小さな家が建ち並んでいる。ラ・ペリア地区だ。古くは奴隷の居住区であり、現在も貧困地区だという。ハリケーン・マリアで特に甚大な被害を受けたことが話題となった。高台から見ると、旧市街を囲う城壁の外側の低地で、災害時に犠牲になることが前提のようにさえ見える。
ラ・ペリア地区では、地元団体がボランティア・ツアーを組んでおり、私たちのクルーズ船からも申し込むことができた。しかし、調べてみるとまるでこの貧困地区を見世物のように扱ったウェブ上の記事がいくつも見つかり、ツアーに申し込むのはためらわれた。それよりも、サンファンの街と歴史的背景を見ることに時間を割く方が良さそうだった。
要塞全体を回り終えた頃、娘のジュニアレンジャーのワークブックも完成していた。近くにいたレンジャーと呼ばれる職員に声をかけると、嬉しそうにバッジを渡してくれた。日本から来ているというと、「オルケスタ・デ・ラルスが来た時に、ライブに行ったけど、良かったよ!」と言われた。サルサの本場とも言えるプエルトリコで、おそらく20年以上前であろうライブを覚えているのだなぁ、と妙に感心した。
サンファンを後にして
旧市街を歩くうちに、日も暮れてきた。港に向けて歩いていると、ツレが「ピニャ・コラーダ発祥の地」と書かれた碑を見つけた。どうやら、その奥がプエルトリコ発祥のこのカクテルを初めて提供した店らしい。壁に掲示されたメニューを眺めていると、初老の男性が通りかかる。「この店で働いてたけど、美味しいよ!」と、熱心に勧めてくれる。どうやら、食べ物も美味しそうだ。今夜のディナーはここに決めた。
ピニャ・コラーダと、カリブ名物の「モフォンゴ」にシーフードを添えたものを注文した。モフォンゴは、バナナやキャッサバを揚げて潰したものらしい。
店の雰囲気はとても良く、食事も美味しかったが、量が多すぎてお腹いっぱいだ。重たいお腹を引きずって、深夜まで盛り上がりそうな飲み屋街を抜け、クルーズ船に戻った。中に入ると、クルーメンバーが明るく出迎えてくれる。
私たちはこのクルーがとても気に入っていた。世界59ヶ国から集まったというクルーたちは、とても明るく、気が利く。クルーズ会社側も、それぞれの文化を大切にし、各国の文化を紹介するイベントもあった。
訛りのある英語も、多様性として明るくアナウンスされる。もちろん、それに苦情を言う人はいない。アメリカの人はそれが差別に当たることをよくわかっている。
クルーの出身国としてはフィリピンが最も多く、他にもインドネシアなどの東南アジア出身者がかなりいた。日本のニュースでは、国内の外国人労働者への差別が度々報道されているが、こうした状況が改善されなければ、国際的な人材獲得競争に敗れていくのだろうなぁ、と彼らの文化が祝福される様子をみて妙に納得してしまった。
その後もクルーズは続き、英領・米領両方のバージン諸島での休日、プールやショー等イベントを楽しみ、私たちはマイアミに戻った。同じクルーがずっと清掃やレストランのテーブルについてくれていたので、彼らとの別れがとても悲しく感じられた。
プエルトリコと沖縄と
夏休みが終わり、ワシントンD.C.での日常が戻ってきた。久しぶりに会う人と夏休みの旅の話をすることの多い時でもある。同じく夏はクルーズに行ったという米軍の退役軍人の方と、日本文化交流会でお茶を飲んでいた時に、彼がふと話してくれた。
――プエルトリコと本土との関係は、沖縄と日本の本土との関係に似ているかな。
7年沖縄に駐留したという人の言葉だ。自治領であるプエルトリコと沖縄とでは、選挙など政治のあり方等は異なるけれど、一つの国の中で、異なる歴史・文化を持ち、差別を受けたり不利な立場に置かれがちだという意味では、共通するところが多くあるのかもしれない。先日も、トランプ大統領が4名の女性下院議員を念頭に「国に帰れば良い」と発言したが、そのうちの一人はプエルトリコ系のオカシオコルテス氏だ。そもそもプエルトリコは米国内であるのに、だ。
私自身、貧困問題に取り組む中で何度も沖縄を訪ねてきた。彼の言葉に、沖縄の人たちと話してきたことを思い出し、プエルトリコの米国内での難しさに想いを馳せることとなった。
※参考文献
牛島万(2005)「コモンウェルス維持か州昇格か?――プエルトリコ系の軌跡」
(大泉光一/牛島万編著『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』明石書店より)