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残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ

〈辺境=最前線〉、そして〈極限〉としてのガザ地区 早尾貴紀

はじめに

 パレスチナ自治区の一部をなすガザ地区。ただし「自治」とは名ばかりで、陸海空をイスラエルによって封鎖された狭隘な人口密集地で、イスラエル軍による攻撃に絶えずさらされ、実質的に「天井のない監獄」である。
 このガザ地区について、何をどう語ればいいのか、戸惑いが尽きない。いかにガザ地区内のパレスチナ人の生活が非人道的で悲惨な状態かを切々と訴えることもできる。あるいはいかにイスラエルのガザ攻撃が残虐で多数の死傷者を出しつづけているのかを告発することもできる。逆に、そんななかでも音楽や絵画などの文化創造をしたり、起業をして新しいビジネスを始めたり、といった希望を見つけ出すこともできる。どれも現実の一面ではある。
 だが、そういう側面を切り取ることでは、パレスチナ/イスラエルの現代史においてガザ地区が担わされた特異なポジションを伝えることができないように思われる。特異なポジションというのは、ガザ地区がパレスチナのなかでも最果ての「辺境」であると同時に、しかしイスラエルの軍事占領政策の「最前線」でもあるというような特異性である。しかも、それはすでに「極限」的な状況を呈している。
 昨年2018年、イスラエルが1948年に建国されてから70年という節目の年に、そのことの意味はかつてないほど浮き彫りになったように思う。一方でイスラエルは建国70年を盛大に祝い、アメリカ合衆国がエルサレムへの大使館移転(国際法違反で国連決議違反)でもって花を添えた。他方でガザ地区では、占領に反対し米大使館移転に反対するデモが繰り返し行なわれ、イスラエル軍はそれに対して容赦なく弾圧を加えた。建国記念日とその前後で約100人、2018年をとおして200人以上のパレスチナ人がイスラエル軍に殺害された。絶望的なまでの非対称性に眩暈を覚えるほどだが、しかし世界はその不正義に目を閉ざし、パレスチナ人の声に耳を閉ざしたままであった。

1 「イスラム原理主義組織ハマスが実効支配しているガザ地区」というデマゴーグ

 ガザ地区について、一般的な人はどのようなイメージをもっているだろうか? まず思い浮かぶのは、この10数年日本のマスメディアで繰り返し使われている表現「ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマス」だろう。これを耳にすれば、「そうか、ハマスというテロ組織が武力でガザ地区を不当に支配しているのだな」という印象を抱くだろう。その延長上に「イスラム国(IS)」を連想する人もいるかもしれない。そこでは対比的に、パレスチナ自治区の主要な地域をなすヨルダン川西岸地区のほうは、主流派のファタハ主導のパレスチナ自治政府によって正当に統治されており、イスラエル当局と協力関係を維持している、ということが示唆されている。そして、安定している西岸地区からは武力衝突のニュースは聞かないが、ガザ地区からは紛争や衝突のニュースが絶えず、ハマスがイスラエルに対してテロ攻撃を加えているのでイスラエル側が反撃・報復しているのだ、というイメージを持つだろう。実際日本のガザ報道では「テロ」「衝突」の言葉がつねに踊っている。

パレスチナ周辺地図(臼杵陽・鈴木啓之編著『パレスチナを知るための60章』より)
 パレスチナ周辺地図(臼杵陽・鈴木啓之編著『パレスチナを知るための60章』より)

 だが、選挙による民主的正統性はハマス政権にあり、ファタハの自治政府は選挙を無視した武力クーデタで西岸地区を制圧している、という真逆のことが明白な真実だということを、世界中の人びとは忘れているだろう。つまり、2006年のパレスチナ自治評議会選挙で、それまでイスラエルとの協力を前提とした自治評議会の選挙に参加してこなかったハマスが、西岸地区とガザ地区の両方で圧勝し、1993年のオスロ和平合意以降ずっと与党であったファタハが惨敗したのだが、それがパレスチナ自治区における最後の選挙であった。
 ハマスはイスラエル国家を承認してこなかった。1948年のユダヤ人国家の樹立がそもそも不当なことであり、パレスチナ全土が占領から解放されるべきだ、という原則(かつてはファタハもその原則に立っていたはず)を保持してきたのだ。しかし評議会選挙に打って出て自治政府の政権を取るということは、イスラエルとの協力関係を前提としており、それはイスラエル国家の承認を事実上意味する。つまりハマスは国際社会の認めた現行国境のイスラエルを受け入れることで、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に限定した地理範囲での軍事占領の終焉とその両地区でのパレスチナ国家独立を目指すという現実主義的方針へ転換したのだった。
 まさにそれこそが、イスラエルには受け入れられないものだった。イスラエルとその守護者アメリカ合衆国とは、惨敗した旧自治政府ファタハに武器と銃弾と軍資金とを提供し、選挙結果を覆してハマスを政権から追放するクーデタを煽動した。イスラエル軍は西岸地区で、当選したハマスの議員をはじめとするハマスの活動家を芋づる式に逮捕・投獄することで、ファタハのクーデタをさらに物理的に支援した。パレスチナは、2006年の選挙から翌2007年にかけてファタハ対ハマスの激しい内戦状態になり、西岸地区はイスラエルとアメリカに支援されたファタハが武力制圧し、逆にガザ地区ではハマスのほうが強力でファタハが一掃された。
 日本も含む国際社会は、イスラエルとアメリカに同調して選挙に敗れたファタハのクーデタ政権を支持し、逆に民主的選挙で勝利したハマス政権を徹底してボイコットした。そして、西岸地区で逮捕されたハマスの議員・活動家たちは、イスラエル当局によって政治犯として逮捕・投獄されるか、あるいはガザ地区に移送された。こうして、
西岸地区=ファタハ系自治政府の統治継続、
ガザ地区=ハマスによる実効支配、
という分断状況が生まれたのであった。しかし法的に言えば、それぞれ「西岸地区を武力で支配するクーデタ政権ファタハ」と「(西岸地区を武力で追放され)ガザ地区を合法的に支配するハマス」と言うべきなのだ。だが、日本政府もイスラエル・米国とともにハマスを敵視し、ファタハの軍事クーデタを支持したために、日本のメディアもそれに同調した報道をしている。2007年のクーデタから10年以上が過ぎ、私たちはこのパレスチナ分断の経緯を忘却してしまった。

2 全体が「難民キャンプ」であるガザ地区

 しかし、そもそも「ガザ地区」とは何なのか。どうしてガザ地区ではハマス支持が強かったのだろうか。それはガザ地区の成立過程に深く関わっている。国連が1947年に決議したパレスチナ分割決議では、イギリス委任統治領パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に二分することで、ヨーロッパから集団移民してきたユダヤ人の郷土建設問題と、アラブ人の独立問題とを解決しようとしたのだが、そのときヨルダン川西岸地区とガザ地区とはいずれも現在の面積よりもはるかに広く(両地区でパレスチナ全土の43%)、両地区間での通行が確保できるように接地していた。しかし、半分以上の土地の譲渡を受け入れられないアラブ人側と、エルサレムへのアクセスも含めて獲得面積になお不満のあったユダヤ人側の双方が反発、分割決議と同時に両者は戦闘状態になった。戦闘は、欧米からの第二次世界大戦に使用されたばかりの最新の武器支援を受けたユダヤ人側が、オスマン帝国下で第一次世界大戦時に使用された旧式の武器しか持たないアラブ人側に圧勝し、新生イスラエルはパレスチナの77%の土地を軍事占領し領土化し、反対に西岸地区とガザ地区はどちらも大きくイスラエル側に削り取られ(さらに半減し約23%へ)、完全に飛び地として離れてしまった。とくにガザ地区は小さく切り縮められ、東西方向に平均9キロメートル幅で、南北方向に約40キロメートルの細長い切れ端のような土地になってしまった。面積わずか360平方キロメートル。これとほぼ同じ面積の日本の自治体は、たとえば栃木県佐野市や岡山県倉敷市だ。しかし、そのガザ地区に暮らすパレスチナ人の人口は現在約200万人。200万人というのはちょうど栃木県全体の人口、または岡山県全体の人口に等しい。すなわち、栃木県民全員が佐野市に、岡山県民全員が倉敷市に押し込められたような人口過密ぶりであり、世界最高の人口密度と言われるゆえんである。
 そもそも存在しなかったユダヤ人国家が突然に欧米の政治的・軍事的支援で出現し、そこに暮らしていたパレスチナのアラブ人(パレスチナ人)たちは武力によって故郷を追われて難民化した。その避難先が、西岸地区とガザ地区、そしてヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなどであったのだが、とくに狭隘な土地となったガザ地区では難民の比率が高く、200万人のうち約75%の150万人がイスラエル領に故郷を奪われた難民とその子孫である。言ってしまえば、ガザ地区は全体として難民キャンプの集合体である、とみなすことができる。
 難民が多い、難民の割合が高いということは、つまり直接的にイスラエルに収奪を受けてきたことに対する抵抗運動に参加する動機が大きいことを意味する。1993年のオスロ和平合意でファタハを中心とするパレスチナ解放機構(PLO)が、国連の認めているパレスチナ難民の帰還権を無視してイスラエルを承認し、イスラエルの協力のもと自治政府を発足させたが、イスラエルは西岸・ガザの軍事占領を終わらせるどころか、占領地へのユダヤ人の入植活動を強化し、とりわけ西岸地区の事実上の領土化を推進していった。それでも自らの権力と利権を優先しイスラエルとの妥協を重ねるファタハ中心のPLO・自治政府に対して、パレスチナ人の大衆的な支持が離れていき、ハマス支持が強まっていったのも当然のことであった。2006年の国際監視団のもとでの公正な選挙結果は、旧来のファタハ自治政府に対する健全な批判票として、ハマスへの政権交代が選ばれたということでしかなかった。オスロ合意が反古にした難民帰還権や入植活動停止をパレスチナ人があらためて求めたということであり、「イスラム原理主義」などまったく論点ではなかった(そもそもハマスはイスラム的な互助組織を基盤として発達したもので「原理主義」ではないし、パレスチナ人がイスラム色を強めたということでもない)。
 すなわち、「オスロ和平体制」と言われるものは、それを支えるイスラエルと国際社会(日本も大スポンサーである)によって、自治政府周辺にだけ援助金が潤沢に回り、表面的には人件費と公共事業とで恩恵を受ける特権層が生まれたが、大多数のパレスチナ人、とくに難民キャンプの人びとはその恩恵から排除されたままだったのだ。自治政府の中枢機関が集中する西岸地区のラーマッラーを中心に特権層が形成され、難民比率の高いガザ地区は取り残され、階層分化がいっそうはっきりしていった。オスロ体制に対する異議申し立ての声は当然ガザ地区で強い。

3 オスロ和平体制に対する三度の組織的な異議申し立て

 そのオスロ和平体制に対する大衆的な異議申し立ては大きく三度あった。
 一度は2000年から数年続いた、いわゆる「第二次インティファーダ」である(「第一次インティファーダ」は1987年からの数年間であり、その帰結がオスロ合意と言える)。西岸地区とガザ地区とそしてイスラエル領内のパレスチナ人の一部にも広がった、イスラエルの占領政策に対する大規模な抗議活動であった。それに対するイスラエルの回答が、徹底した武力弾圧と西岸地区への隔離壁の建設であった。パレスチナ自治政府は屈服して白旗を揚げ、蜂起は沈静化し隔離壁も滞りなく建設されていった。
 この第二次インティファーダ期に私はパレスチナ/イスラエルに研究滞在し、西岸地区・ガザ地区の各地をつぶさに見て歩いたが、国際支援で建設された自治政府関係の建物は徹底して空爆対象とされ破壊され尽くしていた。逆に西岸地区の主要部分を分断しながら囲い込む隔離壁は、総延長700キロメートルにも達するが、街の破壊後の無力感のなかで着々と壁建設が進められていった。それまで広がっていた街の景色のど真ん中に、高さ8メートルにも達するコンクリート壁が出現して風景が一変した。
 そこで二度目の異議申し立てが、イスラエルに対して、そして自治政府に対して示されたのが、先述の2006年の評議会選挙でのハマス圧勝であった。これに対するイスラエルの報復は、ファタハ系旧自治政府のクーデタ支援によるハマス政権潰しであり、そしてガザ地区に追い込まれたハマス政権に対する容赦のない軍事攻撃であった。とくに、2008年12月?09年1月にかけて、2012年11月、2014年7月?8月にかけての3回、イスラエル軍による集中的なガザ侵攻作戦が展開され、それぞれ約1400人、約200人、約2200人のパレスチナ人が殺害された。もちろんそれ以外の時期も単発的な空爆や侵攻はつねになされており、死傷者も絶えることはない。
 そして2006年選挙、07年クーデタ以降、いま現在にいたるまで、何度もハマスとファタハとの連立政権が模索されたが(ファタハの内部には、クーデタ側の反ハマス派もいれば連立を目指す親ハマス派もいる)、ハマスが政権の一部に入ることさえイスラエルからすれば許容できないことであり、イスラエルはパレスチナで連立交渉が進むごとに軍事介入をして潰してきた。それは、ハマスがイスラム色を持つからではまったくない。そうではなく、ハマスが占領の完全終了(東エルサレム解放とユダヤ人入植地の撤去を含む)とパレスチナ難民の帰還権を妥協なく訴えているからである。そしてこの二点は、ハマスの主張である以上に、パレスチナ人たちの譲れない主張だ。そしてこの二点こそがイスラエルが最も拒絶したいものであり、だからこそハマスとは一切交渉をしないのだ。
 私たちがメディアをとおして「ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマス」という表現に馴れ親しんでしまっているときに、「実効支配」という言葉によって、ハマス政権の選挙による正統性が隠蔽され、「イスラム原理主義」という言葉によって、占領と難民を訴える正当性が隠蔽されてしまっているのだ。「ハマスは武力で不当にガザ支配をしているから交渉しない」、「ハマスはイスラム原理主義組織(=テロ組織)だから交渉しない」ということをマスメディアによって刷り込まれているのだ。
 そうして三度目の組織的異議申し立てが2018年からガザ地区で始まった「難民帰還の大行進」である。冒頭でも触れたように、2018年は1948年にイスラエルが建国されて70年の節目であったが、それはパレスチナ人にとっては故郷が破壊されて70年であった。イスラエルが盛大に祭典を企画し、それに合わせて米大使館のエルサレム移転が進められようとしているときに、ガザ地区のパレスチナ人たちは組織的かつ継続的な抗議デモの計画を打ち出した。3月30日の「土地の日」(イスラエルによる土地収用に反対して1976年にゼネストを行なった日を記念して毎年パレスチナの各地で反占領の集会が開かれる)を始まりとして、そこから5月14日のイスラエル建国記念日に向けて毎週末に大規模なデモをイスラエルとの境界線近くで行なうこととしたのだ。イスラエル建国は難民発生の根本原因である以上、建国の祝祭に反対する最大の争点はパレスチナ難民の帰還権だからだ。
 イスラエルは、この「難民帰還の大行進」に対してすぐさま過敏に反応した。境界線近くとはいえ、ガザ地区内部での民衆デモに対して、フェンス際の外側にスナイパーを配置して狙撃したり、戦闘機や戦闘ヘリで空爆を行なったりして、毎週末ごとに多数の参加者を殺傷しつづけた。建国記念日の前後で約100人を殺害、結局「大行進」は建国記念日以降も継続され、その度にイスラエル軍が狙撃と空爆でデモを弾圧し、2018年全体で200人以上を殺害、負傷者は約2万人に達する。

4 「難民帰還の大行進」の異様さ

 この「難民帰還の大行進」と、それに対するイスラエル軍の弾圧には、それぞれに常軌を逸したものを感じる。
 まずイスラエル軍による弾圧だが、イスラエルに対する抗議活動であるとはいえ、ガザ地区内部でのデモに対するものだ。そして、明らかに無防備の市民に対して、イスラエル軍のスナイパーが正確に狙い撃ちをしている。殺害を目的とするときは確実に頭や胸を撃ち抜き、そして障害を負わせたいときは片脚を撃ち抜いているが、そのときは炸裂する特殊な銃弾を用いて、骨ごと粉砕し片脚を切断せざるをえない重傷を負わせている。ガザ地区では2018年から義足や車イスが圧倒的に不足して、片脚を失った負傷者に治療や支援が追いついていない。
 この組織的かつ継続的な殺傷作戦は、極めて異常であり、紛争や戦争の犠牲者として定義するには不適切である。無防備な市民が一人ひとり次々と、頭か胸を正確に撃ち抜かれて殺害されるか、あるいは、片脚を正確に吹き飛ばされて障害を負わされているのである。それが一年以上続いているにもかかわらず、国際社会からのイスラエルに対する批判はひじょうに弱く、止めることができない。ガザ地区という「辺境」の「封鎖地帯」の出来事に対する関心の低さ、そして「イスラム原理主義組織が実効支配する地域」への攻撃を対テロの自衛と正当化する傾向があるためだろう。
 他方、パレスチナ人の側を見たときにも別様の違和感を覚える。それは、「難民帰還の大行進」に参加すれば、確実にイスラエル軍によって一定数の参加者が殺傷されることが分かっていながら、若者を中心としてどうして参加するのか、ということだ。ガザ地区のパレスチナ人のなかからもそうした声が出ているし、家族が参加を止めた、止められたにもかかわらず参加した、といったことをよく聞く。言ってしまえば、これはある意味で「自殺行為」であるからだ。
 ガザ地区の若者たちは、自殺行為であると分かって参加する、自殺行為であるにもかかわらず参加する。すなわちこれは、本当に「自殺」に向かっているということではないのか。ガザ地区にあって若者たちは未来を思い描くことができない。陸海空を封鎖された狭隘な難民キャンプの集合体としてのガザ地区。失業率は50%以上。食糧、燃料、資材、医薬品などの必需品でさえイスラエルに物流を制限されており、水道や電気の供給も著しく制限されている。そこへ断続的になされるイスラエル軍による空爆。かつては南部のエジプト国境でのトンネル密輸が命綱であったが、数百本あったその地下トンネルもほとんどが空爆で壊滅させられたうえに、新たな建設を阻む地下壁も設置された。そして国際社会は、医療や福祉の分野のNGOが文字どおり非政治的に最低限の支援をするのみで、イスラエルによる占領・封鎖・攻撃に対しては何も手を打てないでいる。これではパレスチナ人が未来に絶望しないでいることにもはや無理がある。
 デモをしたところで何も変わらない。のみならず、イスラエル軍は容赦なく狙撃してくる。いつ撃ち殺されてもおかしくない。毎週仲間の誰かが射殺され、あるいは片脚を奪われているのを目にしているから、次は自分の番かもしれないという予感は当然ある。それでもデモに参加するのは、むしろ殺されるならそれでもかまわない、というどこか自暴自棄があるからだ。だから命を危険にさらしてフェンス際に近づいてデモができる。
 かつて私は、ここまで封鎖される前の第二次インティファーダ期(2000年代前半)に何度かガザ地区に入って内部を歩いている。当時はまだイスラエル軍の基地がガザ地区内部にあったが、当時からパレスチナ人の若い男性たちは、そこに対して無謀とも言える投石を繰り返していた。石を投げて届く距離まで基地に近づかなければならない。イスラエル兵による威嚇射撃はしょっちゅうある。機関銃の実弾連射がなされて、私の目の前数メートルのところに砂塵が舞い上がっていた。もちろん撃ち殺された仲間もいただろうし、銃弾をくらって負傷した経験のある若者たちも多かった。外国人である私に対して、服をめくり上げたり袖をまくったりして、自慢げに銃創を見せてきたパレスチナ人が何人もいたが、もちろん数センチずれていたら死んでいたかもしれない。それでもイスラエル軍基地へどこまで近づいて投石できるのかを仲間うちで競うことを彼らは止めなかった。度胸試しと言うにはあまりに自分の命を粗末に扱い過ぎだ。当時もそう思って見ていた。
 あれから10年以上が過ぎた。ガザ地区の内部からイスラエル軍基地はなくなり、逆に陸海空が完全に封鎖されるようになり、そしてフェンスの外側から、あるいは上空から攻撃がなされるようになった。かつてこの「天井のない監獄」では「看守」(イスラエル兵)が内側にいて、いまではその看守は外側に出たのだが、しかし占領・封鎖が終わったわけではない。看守は外側の安全圏から、監獄への監視と懲罰を続けている。そうした監獄のなかで若者たちの自殺行為はいっそう自暴自棄の度を深めているように思われる。

5 占領政策の「最前線」ガザ地区の極限的状況?――「難民キャンプ」からの追放

 大規模なガザ地区侵攻があった2008年12月~2009年1月の直後に、私はジャーナリストの小田切拓氏とともに、ガザ地区研究の権威であるサラ・ロイ氏を日本に招いていくつかの講演をしてもらったことがある(その記録は『ホロコーストからガザへ』として編訳刊行した)。ロイ氏はホロコーストの生き残りを両親にもつユダヤ人でありながら、明確にイスラエルのシオニズム思想と占領政策に反対している。そのロイ氏のガザ分析の鋭さは際立っており、ガザ地区がイスラエルの占領政策全体にとって大きな「役割」を担ってきたことを早くから指摘していた。すなわち、占領下のパレスチナ人をIDカードで管理する方法や、フェンスや壁で囲い込む方法、そしてヒト・カネ・モノの流通をコントロールする方法などは、まずガザ地区に導入され効果が確認された後に、西岸地区に導入されている。ガザ地区はいわば占領政策の「実験場」である。
 さらに、狭隘で切り離されていて、乾燥地帯で資源的価値の小さいガザ地区は、隔離するのにも便利であり、西岸地区や東エルサレムから邪魔なパレスチナ人を放り込んでおく場所としても使われてきた。近年はハマスの政治家・活動家を西岸地区から放逐する場所となっている。いわば「流刑地」としてのガザ地区だ。
 さらにロイ氏によると、ガザ地区への苛烈な攻撃は、集団懲罰の「見せしめ」として機能しており、西岸地区に対して「イスラエルに抵抗するとこういう目に遭うぞ」という脅迫のメッセージとなっている。西岸地区のファタハ自治政府はガザ攻撃を見せつけられては、いっそうイスラエルに対して従順になる。しかしそれによって西岸地区は占領を免れるのではなく、逆により効果的に占領下に組み込まれるようになる。
 すなわちイスラエルにとっては、ガザ地区は南部の「辺境」にあり、かつ西岸地区のように水源や農地としての価値はもたないが、その西岸地区をより徹底的に収奪するための占領政策の「最前線」を担わせられてきたのだ。いまのガザ地区はその役割も最終段階であろうか、あまりにも絶望的な状況が続いたために、先述のように若者たちの「自殺行為」が目に余る。
 さらに最近、気になるニュースが飛び込んできた。ガザ地区から幸運にも留学や研究や就職で外国に出ることのできた高学歴者たちを中心として、そのままガザ地区に戻らないケースが急増しているという。それは一方で「頭脳流出」として知識や技術をもつ人材の不足を招くことになるのだが、他方でさらに異様なことに、ガザ地区からのパレスチナ人の離脱をイスラエル政府が推奨し、具体的に支援さえし始めているというのだ。移動のための費用負担だけでなく、外国での受け入れ先探しや、移動のための空軍の飛行場・航空機の提供などだ。その効果が出始めているのか、2018年の1年間で自発的にガザ地区を離れた人口が推計で約3万5000人に達するという。
 これはかつて1948年のパレスチナ難民発生時に、イスラエルがそれを「追放」とは認めず、「自発的な避難移住」であったと主張したことを彷彿とさせる。ガザ地区はパレスチナの辺境にある難民キャンプの集合体だと述べたが、その難民キャンプからさえもパレスチナ人たちは、「善意」を装いながら体よく「追放」され始めているのである。
 日本も含む国際社会がイスラエルとアメリカ合衆国とに従っていっしょに追いつめたガザ地区は、まさに崩壊の最終局面を迎えているように思われる。


【参考文献】
清田明宏『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』(集英社新書、2019年)
イラン・パペ『パレスチナの民族浄化――イスラエル建国の暴力』(田浪亜央江、早尾貴紀訳、法政大学出版局、2017年)
藤原亮司『ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる』(dZERO、2016年)
サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ――パレスチナの政治経済学』(岡真理、小田切拓、早尾貴紀編訳、青土社、2009年)

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著者略歴

  1. 早尾貴紀

    1973年生まれ、東京経済大学教員。ヘブライ大学およびハイファ大学に客員研究員として2年間在外研究。パレスチナ/イスラエル問題、社会思想史。
    主な著書に、『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)、『国ってなんだろう?――あなたと考えたい「私と国」の関係』(平凡社、2016年)。共編著に、『ディアスポラから世界を読む――離散を架橋するために』(明石書店、2008年)、『ディアスポラと社会変容――アジア系・アフリカ系移住者と多文化共生の課題』(国際書院、2008年)ほか。共訳書に、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ――パレスチナの政治経済学』(青土社、2009年)、ジョナサン・ボヤーリン、ダニエル・ボヤーリン『ディアスポラの力――ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』(平凡社、2008年)、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化――イスラエル建国の暴力』(法政大学出版局、2017年)、エラ・ショハット、ロバート・スタム『支配と抵抗の映像文化――西洋中心主義と他者を考える』(法政大学出版局、2019年)ほか。

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