明石書店のwebマガジン

MENU

オックスフォード哲学者奇行

ライルのカテゴリーミステイク

今春からサバティカルでオックスフォード大学に来ている。が、夏の間に所用で一時帰国する必要があり、今はちょうど英国に戻るところだ。

今春からブリティッシュ・エアウェイズ(BA)が関空-ヒースローの直行便を始めたので、今回はそれを利用することにした。BAは今年が100周年とのこと。今から100年前の1919年というのは、世界史的にはもちろん第一次世界大戦終結の年だ。しかし1919年は、オックスフォード哲学にとっても因縁の深い年である。というのは、この年は1900年生まれのギルバート・ライルがオックスフォード大学に入学した年であり、またG.E.M.アンスコム、アイリス・マードック、マリー・ミジリー、P.F.ストローソン、それにR.M.ヘアという、キープレーヤーが生誕した年だからだ。彼らや、またA.J.エア、J.L.オースティン、フィリッパ・フット等々がオックスフォード哲学の隆盛に貢献し、それぞれが大きな功績を残したことは周知のとおりである。しかし、彼ら一人一人の風変わりな一面や、その人間関係についてはあまり知られていない。そこでこの連載では、彼らの伝記やインタビュー記事や追悼文などから垣間見える人間模様を紹介していく予定である。

アンスコムたちについては追々話すことにして、今回は前回に引き続きライルについて話そう。

なお、この原稿はたまたまBAが私の座席をビジネスクラスにアップグレードしてくれたおかげで書くことができた。もしかするとたまたまではなく、私がこの連載でオックスフォードや英国の宣伝をすることをMI5が早々に察知してBAに知らせてくれたのかもしれない。その場合は英国の関係機関に謝意を表するとともに、引き続き厚遇してもらえることを期待したい。

BAのビジネスクラス。掲載するつもりで撮ってはいなかったのでこれしか写真がない。詳しくはBAのサイトを参照。

さて、前回述べたように、カテゴリーミステイクとは、あるものをそれが本来所属すべきカテゴリーとは違うカテゴリーに入れてしまうことから生じる誤りのことである。遠足で「バナナはおやつですか?」と尋ねるという状況を考えよう。これは、バナナはおやつというカテゴリーに所属するのか、あるいはおやつのつもりでバナナを遠足に持ってくるとカテゴリーミステイクを犯したことになるのか、という質問と理解することができる。あるいはゴミの分別を考えてもよい。オックスフォードでは現在、生ゴミは埋めるゴミとは別に処理しなくてはならないのだが、私が誤ってバナナの皮を燃えるゴミの袋に入れようとすると、某妻には「ほらまたカテゴリーミステイク!」と罵られる。

ゴミの分別。埋める用のゴミ箱、リサイクル用のゴミ箱、生ゴミ(コンポスト)用のゴミ箱がある。これは私の家ではないが、たまたま数字の並びがおもしろかったので掲載しておく。

こういう卑俗な事例で話してもらえると助かるのだが、ライルが出しているのは英国らしい事例、すなわち前回扱ったオックスフォード大学の事例、師団の行進の事例、クリケットの事例などである。また、前回は取り上げなかったが、英国の憲法の事例もある。だが、これまた英国は成文憲法ではないので若干の背景知識が必要になる。

オックスフォード大学の事例も注意が必要である。次の説明を見てほしい。

「図書館や講義棟といった個々の建物のあつまりが大学と呼ばれる……。だが、大学とは何なのかよくわかっていない人は、図書館や講義棟と並んで、「大学」という建物があると考えてしまうかもしれない。この人は、大学というのは図書館や講義棟と同じ「建物」というカテゴリーに属するものではないとわかっていないのだ。こうした人はカテゴリー錯誤をおかしているといわれる。」[1]

これはカテゴリー錯誤の説明としては間違いではない。だが、ライルが念頭においていたのは上記の説明ほど愚かな人ではないだろう。ライルが「初めてオックスフォードやケンブリッジを訪れた外国人がやる間違い」と言っているように、この間違いは京大や東大のようなごくありふれた大学では生じない種類のものである。たとえば、京大や東大に初めて来た人が、文学部や法学部や医学部や時計台や図書館を見た後に、「ではいったいどこに大学があるんですか?」と尋ねるという状況は、ほとんど考えられないだろう。このような間違いは、オックスフォード大学のようにコレッジの集合体としてオックスフォード・ユニバーシティがあるという特殊な構成になっている場合にのみ生じる間違いだといえる。

この場合のコレッジというのは単科大学を意味するのではなく、文系理系を問わずさまざまな専門の研究者が属する独立性の高い教育研究機関である。なお、オックスフォード大学にはユニバーシティ・コレッジというコレッジまであり、この場合のユニバーシティはどういう意味なのか考えさせられる。また、オックスフォードにはコレッジの他に哲学科のようなファカルティもあるが、かつては哲学科の建物は存在しなかった。話がややこしくなってきたが、とにかくライルが挙げている例は大学一般に当てはまるものというよりは、英国独特の制度を前提とした、英国人にしか通じにくい事例である。

ユニバーシティ・コレッジのロジックレーン。

私はまだオックスフォード大学はどこですか、と訊かれたことはないが、現天皇が皇太子の頃にオックスフォードのマートン・コレッジに留学していたときにも、このような疑問をもつ観光客がいたと述べている。ついでに引用しておこう。

「オックスフォードの町を歩いていると、しばしば「大学はどこにあるのだろうか」と言っている観光客に出会う。このような疑問をもつのは日本人だけではないが、この言葉はオックスフォード大学の建物が存在するわけではなく……これらのコレッジが各々独立しながらオックスフォード大学という一つの連合体を形成している。」[2]

さて、ライルは「カテゴリー」という論文を戦前に書いているが、ここでいうカテゴリーとは、たとえば実体や属性のことである[3]。古典的な区別をすると、実体はそれ自身で存在できるが、属性(性質)は実体に依存しなければ存在できない。オレンジ色の自動車を考えると、自動車が実体で、オレンジ色は属性である。属性であるオレンジ色は自動車抜きには存在できない。より正確に言えば、オレンジ色であるのは自動車というよりペンキであり、自動車とオレンジ色のペンキは独立に存在できる。しかしその場合でも、ペンキのオレンジ色はペンキの属性であってオレンジ色はペンキ抜きには存在できない。

ロンドンのデザインミュージアムにあるオレンジ色の自動車。キューブリック監督による映画『時計仕掛けのオレンジ』で使用されたもの。

さてさて、デカルト的な心身二元論によれば、身体(ボディ)と心(マインド)は2つの実体である。心は身体に依存することなく、したがって身体が滅びた後にも存在できるような実体というカテゴリーに属するものとして捉えられる。ライルがカテゴリーミステイクの哲学上の一例として『心の概念』で問題にしたのは、この心身二元論である。彼によれば、心を実体と考えるのは「デカルト的神話」であり、これは「一つの大きな誤りであり、特別な種類の誤り」、すなわちカテゴリーミステイクである。ライルの有名なフレーズを使うと、心は「機械の中の幽霊(Ghost in the Machine)」ではない。心を身体と同様に実体というカテゴリーに所属させることはできない[4]

では心が実体でないとすると、それは何なのか。身体の属性なのか、身体と不可分の何かなのか、あるいはそもそも本当は存在しないのか。これが心の哲学の出発点であるが、関心のある読者は先の『ワードマップ心の哲学』などを参照していただくとして、ここでは触れるだけにとどめる。

もう少しライルの哲学の続きをしたいが、残念ながらここで字数も精根も尽きたので、次回に続くことにする。

 

[1] 片岡雅知「行動主義」信原幸弘編『ワードマップ心の哲学』新曜社、2017年、26頁

[2] 徳仁親王『テムズとともに:英国の二年間』学習院教養新書、1993年、50頁

[3] Ryle, Gilbert, “Categories”, Proceedings of the Aristotelian Society, vol.38, 1937, pp.189-206

[4] Ryle, Gilbert, The Concept of Mind: 60th Anniversary Edition, Routledge, 2009

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 児玉 聡

    京都大学大学院文学研究科准教授
    1974年大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。東京大学大学院医学系研究科で専任講師を務めた後、2012年から現職。現在、オックスフォード大学にて在外研究中。
    主な著書に『正義論』(共著、法律文化社、2019年)、『入門・倫理学』(共編、勁草書房、2018年)、『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人、2013年)、『功利主義入門』(筑摩書房、2012年)、『功利と直観』(勁草書房、2010年、日本倫理学会和辻賞受賞)など。

閉じる