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残余の声を聴く――沖縄・韓国・パレスチナ

難民の島、平和の島 趙慶喜

 日韓関係の亀裂が深まるなかで、韓国社会についての批判を含めた文章を日本に発信することに若干の戸惑いを感じている。歴史問題をめぐる韓国と日本の温度差は今にはじまったことではないが、昨年の韓国大法院の「徴用工」判決への対抗措置とも取れる日本政府の対応は、今後両国の外交・経済・歴史・文化・教育などのすべての領域に長らく影響を及ぼすだろう。お互いを仮想敵国とするような言説状況に対し別のかたちの知的介入が必要だ。たとえばある特定の共通課題について、お互いの経験を共有してみるのもいいだろう。今回のエッセイでは、昨年から韓国社会の大きな課題となっている難民問題について済州島の歴史的位置とともに考えることで、リレー連載の1周目の共通テーマである「島(辺境)/主体と他者」という問題への私なりの問題提起としたい。

1 済州島に向かった難民

 2018年6月、済州島に突如あらわれたイエメンからの難民をめぐり韓国社会は大きく動揺した。イエメン難民は2016年頃から少しずつ増え始め、2018年には約550名が済州島に上陸した。済州島は2002年から、外国からの観光客に対するビザ免除制度を(テロ支援国など11カ国を除いて)施行している。内戦が続くイエメンからの避難民は当初同じくビザ免除制度を採っているマレーシアに向かったが、マレーシアが受け入れを拒否したため済州島へと行き先を変えた。ちょうど2017年末にマレーシアから済州島への直行航空便が新設されたことが大きな変数となった。
 この事態に戸惑った法務部は、2018年4月30日、難民が済州島を出島しないよう制限措置を取ったほか、6月にはイエメンをビザ免除対象国から除くに至った。出島制限はその後解除されたが、こうした措置が韓国社会に混乱を招く引き金となった。済州島は難民を担当する公務員も難民支援団体もほとんどいなかったと言われる。2015年に200名ほどのシリア難民が入国した際にはさほどイシューとならなかったことからも、イエメン難民を済州島に閉じ込めたことで集団として過剰に可視化され、必要以上の葛藤が惹き起こされたことは否定できない。
 法務部が難民申請者たちの生活苦を考慮し、早期就業を許可する方向性を明らかにしたところ、「済州島不法難民申請問題にともなう難民法、無ビザ入国、難民申請許可の廃止」を求める国民請願が青瓦台ホームページにあげられ、およそ10日間で30万人以上、合計70万名以上の署名を集めたのは記憶に新しい。その請願に同意する意見には、「自国民の治安と安全を優先せよ」という声とともに、偽装難民・イスラム極右・テロリストといった露骨なヘイト・スピーチやフェイクニュースの類も多く含まれた。
 もちろん他方では、難民の受け入れは韓国社会の成熟度を図る試金石であるとして、済州島民をはじめとする多くの支援者たちが生まれた。たとえば、『ハンギョレ新聞』が取材した済州島に住むある音楽家の女性は、済州市内の入管近くにある自分の練習室を難民に開放し、パンや牛乳などの食料品と生活用品の支援を続けた。聞きつけた人々が韓国語教室を開いたり、仕事の斡旋をするなど支援の輪は広がった。イエメン人と身近に接するなかで、ハラール料理の食堂を開くことになった彼女は、シェフとして雇用したイエメン難民と昨年末結婚した1。済州島民にとって難民との共存は日常として今もある。
 済州島におけるイエメン難民の急増は、何よりもLCC航空会社によるマレーシアからの直行便格安キャンペーンがもたらした偶然の出来事ではあったが、そのほかにもSNSなどを通じて「済州島は難民にとって暮らしやすい場所」であるといった認識が拡散したことも指摘されている。韓国はアジアで唯一の「難民法」を制定した国であり(2012年制定、2013年施行)、このことが彼らに大きな期待を抱かせたことは容易に想像できる。ただ、難民法の制定により難民審査の透明性確保など最低限のルールは守られはじめたが、その実績は期待とはほど遠い。難民条約加入後の1994年から2018年までの難民申請数は48,906件、認定数は936件である2。難民法施行後は世界的な趨勢から申請者は年々増えていったが、平均認定率は3.25%程度である。
 さらに難民法施行後初めての世論の大きなプレッシャーのなかで、イエメン難民の審査は厳格に進められた。最終的に484名が難民申請を行い、審査の結果、フーシ派反乱軍を批判する記事を書いたジャーナリスト2名のみが難民として認定され、412名が人道的滞留許可を受けた。滞在許可を受けた人々は、現在各地で漁業や製造業などに従事しながら生計を立てている。

2 平和ムードのなかのゼノフォビア

 ところで、2018年6月という時期に難民ヘイトが前景化したという事実は看過し難いものがある。平昌オリンピックと歴史的な南北会談・米朝会談を経て、まさに朝鮮半島の平和ムードが最高潮に高まっていた最中の出来事だったからである。急速に広まった難民反対の世論とあからさまな嫌悪の表出に目を疑うしかなかった。光化門広場には「難民歓迎」とともに「偽装難民反対」のピーケットが同時に舞っていたが、後者がより多く目立っていた。各種のオンラインコミュニティ・掲示板・SNSには、「大韓民国がいつから経済大国になったのか」「国民も食べていくのがやっとなのに難民を受け入れる余裕などない」といった「庶民」たちの実感のこもった意見が飛び交った。朝鮮半島の平和と難民の追放という世論はなぜ同時に噴出したのか。これらはどのような相関関係にあるのか。このことを考えずに朝鮮半島の平和と統一を語ることができるのだろうか。
 もちろん、難民反対の世論は明らかに極右勢力のネガティブ・キャンペーンの成果であった。先頭に立つ保守野党の自由韓国党(2017年セヌリ党から改名)は、イエメン難民のほとんどが経済的理由による偽装難民であるとし、難民法があるがゆえに韓国が利用されていると訴えた。難民問題に対する現政権の曖昧な態度を偽善であると強く非難し、文在寅の大統領選挙時のスローガン「人が先だ」の論理を「国民が先だ」に置き換え、若い世代の漠然とした不安感や被害意識を掻き立てた。若い世代の支持の低さをこのような恐怖政治を通して挽回し、南北関係の改善に歴史的な成果をもたらした現政権を牽制しようとしたわけである。
  また、原理主義的なキリスト教勢力によるフェイクニュースもかつてないほどに急速に広まった。「スウェーデンで発生した性暴力の92%がムスリム難民によるものであり、その被害者の半分が児童である」といったもっともらしいデマが「海外発の衝撃的な事実」として拡散していった3。フェイクニュースの発信源や流通ルートについては、その後いくつかのメディアが集中的に掘り下げ、極右キリスト教ネットワークの実体がある程度明らかになっている。その中心団体として名指された団体「エステル祈祷運動」が、特集記事を出した『ハンギョレ新聞』社長と編集長を告訴するなど、フェイクニュースをめぐって攻防が展開された。さらに、政府がフェイクニュース規制を強めるための情報通信法の改正を宣言するなど、イエメン難民問題は「表現の自由」の根幹に関わる争点を惹き起こすきっかけともなった。
 今回の問題を一般的な難民問題ではなく、イスラム問題とする見方もある。イスラムの宗教や文化風習が韓国とは相容れないものであり、また家父長的で女性抑圧的であるということが強調された。とりわけ済州島に上陸したイエメン人の91%が男性であったことは、韓国の女性たちに相応な不安感を惹き起こした。イスラム圏での女性の人権水準が低いことに対する憂慮と怒りも加わり、イスラム文化との共存不可能性を正当化するうえで、女性の恐怖・安全・保護といったレトリックが多用された。「安全」の名のもとで一部の女性たちがイスラム嫌悪に加担してしまったことは、韓国社会でのフェミニズムの高まりを考えた時、決して見過ごせない問題を含んでいる。
 この一年のあいだ露骨なヘイトへの批判が高まるなかで、韓国の市民社会も一定の学習と自省の過程を経たものと思われる。これほどまでに肌の色と文化の異なる他者との共存(不)可能性を深刻に討議したことはなかったはずである。ただ、問題は偽情報の発信や個々人のリテラシーの欠如だけにあるわけではない。情報の真偽にかかわらず、ムスリム難民に対する漠然とした恐怖感を自ら募らせ、それを正当化するべく「国民ファースト」に傾倒してしまう、ゼノフォビアと国民主義が結びついた心情にある。
 今日の韓国社会は2017年の朴槿恵退陣デモをひとつのメルクマールとして、民主的に覚醒した「ろうそく市民(촛불시민)」が生まれたといわれる。現政権もまた、失われた10年を取り戻すべく、「積弊清算」という名のもとで政治的・社会的変革を推し進めている。この過程は、国内政治へのきわめて成熟した批判精神と態度を生み出した一方で、移民問題や内なる人種主義への反省をどれだけ伴っていたのだろうか。むしろ同質的で排他的な国民主体を強化する契機を孕んでいたのではないだろうか。難民ヘイトの表出は、これまでの韓国の同化主義的で選別主義的な多文化主義の帰結でもあった 4。流暢な韓国語を話し大韓民国に貢献を惜しまない合法的な「大韓外国人」のみを歓迎してきた結果、韓国社会はイエメン難民の存在を「信頼に値しないフリーライダー」と見なす多くの人々を生み出してしまった。この不寛容な姿に開き直る前に過去の自画像と向き合う必要があるだろう。

3 済州島と「密航」の歴史

  「われわれもかつては難民だった」。国連難民機構(UNHCR)の親善大使として活動する俳優のチョン・ウソンは「韓国も難民問題の痛みを経験し、国連をはじめ他国の支援を受けたことを記憶しなくてはならない」といって難民への共感を訴えた。受けた分だけ返さねばならないという互恵主義をしきりに強調するまでもなく、難民の歓待はすでに世界共通の課題としてある。にもかかわらず済州島という辺境の島が解放後に経験した難民化の過程を考えると、やはり今日の大韓民国の中心で展開される難民への当惑や拒否反応はあまりにも非歴史的であるといわざるをえない。
 近現代史を振り返ると朝鮮半島は多くの海外移住者を構造的に生み出した地域である。植民地時代の農民の流民化、済州島4.3事件と朝鮮戦争からの避難民、そして朴正煕維新独裁時代も迫害から逃れて海外に亡命を果たした人々がいた。特に済州島から日本への密航は、植民地期から解放後の1970年代までも続いた。これらを「難民」と呼ぶのかどうかは異論の余地があるが、虐殺、戦争、貧困、迫害から逃れようと危険を犯して国境を超えていったという意味では多分に難民性を帯びていた。
 解放直後の済州島は、戦争物資の強制供出のせいで深刻な食糧難と住宅難に見舞われていた。植民地時代に日本からの送金と軍需物資輸出などの現金収入によって支えられていたため解放後大きな打撃を受けた。また、日本軍が撤収する一方で国内外に散らばって暮らしていた済州人約6-8万人が一気に帰還した。こうした人口の量的質的膨張は、解放後政治経済的緊張の一要因として作用した5 。日本との定期旅客船が途絶え、SCAP(連合国最高司令官)の方針によって搬入物資も制限されると、人々と物品の往来のための密航船が再び玄界灘を行き来し始めた。1948年の4.3事件に至る不穏な空気のなか、多くの済州道民が警察や右翼組織の西北青年団の弾圧を逃れ日本に密航した。解放直後から朝鮮戦争前後までその数は数万名にのぼる。
 さらに国連韓国再建機構(UNKRA, United Nations Korean Reconstruction Agency)は、朝鮮戦争当時に朝鮮半島で生まれた失郷民(シリャンミン)(南北分断で故郷に帰れなくなった人びと)の救護活動を約10年間にわたり行った。UNKRAは現在のUNHCRの前身と言われるように、韓国の近現代史は戦争難民の歴史と直接に繋がっている。1970年代中盤にはベトナム難民が釜山に到着した。日本や中国に比べてごく少数のベトナム難民を受け入れた韓国は、今でもそのことを不甲斐ない過去として記憶している。いずれにせよ、韓国はボートピープルを送り出した過去も、受け入れた過去もある。難民問題は決して21世紀に突如あらわれた出来事ではない。
 現在の難民と異なり、済州島から日本への密航――避難・求職・家族再結合という移動の形態は、帝国時代に経験した移動パターンの反復であって、ここにはすでに蓄積された人的・物的ネットワークが存在した。つまり相対的に接近性の高い生活圏がすでにあった。彼らは、ポストコロニアルな分断国家であると同時に、高度成長の恩恵を受けられなかった辺境の島という二重の周辺性が生み出した構造的な難民であった。他方、一万円の格安航空券とともに偶然に済州島に行き着いたイエメン難民にとって、済州島そして大韓民国はどれほど安全な地だっただろうか。500名あまりの自分たちを脅威と見なす人々に対し彼らはただ沈黙するだけである。
 こうした経緯を考えると、当初イエメン難民が済州島から出られないよう韓国政府が出島制限をしたことは問題の根が深いと思われる。それは難民に対する深刻な人権侵害であると同時に、彼らを済州島に閉じ込めてそれ以外の地域は事なきを得ようとした点で、済州島に対し繰り返してきた構造的差別を前提としている。「イスラムが拡大しないよう、絶対に陸地に足を踏み入れさせないようにしなくてはならない」6といったキリスト教原理主義者たちの言い分をそのまま実践したようなものである。結果的に出島制限により難民の存在はより可視化され、社会的葛藤はより拡大されてしまった。カンジョン村での海軍基地建設問題や第二空港建設問題など、済州島は辺境の島としてすでに過剰なコストを支払っている。済州島を平和の島にする努力は、済州島民だけに課されているのではない。

4 日常としての歓待を学ぶ

 済州島の39の市民団体は、昨年6月に「済州難民人権のための汎道民委員会」を構成した。共同代表のキム・ソンインは、「難民嫌悪があったというが、歓待の情緒がそれよりも数十倍もあった。ただその歓待が整頓されていなかった。私たちの整頓されない歓待が介入することで混乱を加重させた」として、歓待にも方法と体系が必要であると語っている7。歓待を宣教ととらえる一部の教会関係者をはじめ、多くの人々が自己満足的に歓待を実践することに対して慎重に異議を唱えている。ここには嫌悪/歓待という空虚な二分法ではなく、地域の日常のなかで難民と出会うことへの実践的な言葉がある。難民に限らず、私たちは他者への歓待を「具体的に」考えることに慣れていない。観念的な温情主義が難民を対象化し手段化してしまう危険性について、済州島での経験は私たちに多くのことを教えてくれる。
 イエメン難民問題は、「圧縮成長」を経たポストコロニアルな分断国家としての大韓民国の複合的な自我をまざまざと見せつけた。この一年のあいだ一部で沸き起こったムスリム男性難民へのヘイトに対し、私たちはすでに多くの別の言葉を持ち始めている。90%以上の男性たちは特権的な逃避者ではなく、反体制組織による内戦への動員から逃れてきた者たちであること。彼らに反対することが、決してイスラム女性を助けることにつながらないこと。彼らの多くが内戦が落ち着くまで、ただ静かに暮らせることだけを望んでいること、など。
 今日私たちは難民問題のフレームを嫌悪/歓待の二者択一ではないかたちで拡大していく必要がある。彼らそして私たちに必要なのは収容所でもなければ難民キャンプでもない。閉じ込めておく島でもない。そして常に純粋で善良な難民がいるわけでもない。彼らは地域のなかで共存し、おそらく時には葛藤を引きおこす人々である。そうした当たり前のことこそが歓待の日常性につながるだろう。そうした実践は時間がかかる。まだ始まったばかりである。


1 https://www.msn.com/ko-kr/news/national/단독“제주에서-만난-축복”…예멘-난민-아민-제주도민-와르다를-만나-결혼하다/ar-BBVxTcw
2 NANCEN(難民人権センター) https://nancen.org/1938?category=118980
3 「ハンギョレ新聞」2018.9.27. http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/863478.html
4 趙慶喜「裏切られた多文化主義――韓国における難民嫌悪をめぐる小考」『現代思想』2018年8月号.
5 「제주4・3사건진상조사보고서작성기획단「제주4・3사건 진상조사보고서」(제주4・3사건 진상규명및희생자명예회복위원회, 2003), 68쪽.
6 『ハンギョレ新聞』2018.6.18. http://www.hani.co.kr/arti/society/rights/849580.html
7 「분별없는 환대의 폭력성을 돌아봐야 할 때」『복음과사상』2019.5.27.
http://www.goscon.co.kr/news/articleView.html?idxno=30614&fbclid=IwAR1Pq0S-xrIshqiQiqm59xx7vPeKQBImGIm449IPkz4IXXLQVS7vRIZCSA4

 

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著者略歴

  1. 趙慶喜

    1973年生まれ、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、東京外国語大学にて博士号取得。2004年からソウル在住。現在、聖公会大学東アジア研究所助教授。歴史社会学、植民地研究、ディアスポラ研究。
    主な共編著に『主権の野蛮:密航・収容所・在日朝鮮人』(ハンウル、2017)、『「私」を証明する:東アジアにおける国籍・旅券・登録』(ハンウル、2017)、共訳書に金東椿『朝鮮戦争の社会史:避難・占領・虐殺』(平凡社、2008)、白永瑞『共生への道と核心現場:実践課題としての東アジア』(法政大学出版局、2016)、主な論文に「『朝鮮人死刑囚』をめぐる専有の構図:小松川事件と日本/「朝鮮」(『〈戦後〉の誕生:戦後日本と朝鮮の境界』新泉社、2017)、「裏切られた多文化主義:韓国における難民嫌悪をめぐる小考」(『現代思想』2018.8)など。

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